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12月7日の「賢治万象―こころの森の交歓会」

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 年若き私のメール友達が、来月7日に花巻のイーハトーブ館で開催するイベントの案内を送ってくれました。
 「賢治万象―こころの森の交歓会―」と題した催しで、私のメル友である岡部和保さんがピアノを弾き、それに加えて鹿踊りの演舞や、「早池峰賢治の会」会長の浅沼利一郎さんの講演も行われます。

 下に、そのチラシを貼っておきます。

「賢治万象」チラシ表

「賢治万象」チラシ裏

 ピアノ演奏をされる岡部和保さんは、横浜在住の高校生ですが、小学校6年生の時に「卒業論文」として、「宮澤賢治と薔薇」、「薔薇輝石」について調査をされ、その折りに私のサイトの「賢治が愛したバラ(1)(6)」などを参照していただいたご縁で、メールのやりとりが始まりました。
 岡部さんはその論文執筆のために、賢治が薔薇を注文した「横浜植木株式会社」や、同社の昔の資料が保存されている「横浜開港資料館」に出向き、また「横浜ばら会」の人からはバラに関する専門的知識の教示を受け、さらにはるばる岩手まで足を延ばして「花巻ばら会」の方々に当時の話を聞いて、その案内で佐藤隆房氏の旧宅も訪問するという、圧倒的な調査活動をされました。私もそのお話をうかがった時には、小学生とは思えないその綿密な調べっぷりには驚嘆したおぼえがあります。そうそう、薔薇輝石については、一般には野田玉川産のものがよく知られていますが、賢治の書簡には大槌産のものが出てくるということで、大槌町役場の職員にも情報を提供してもらったとのことでした。

 その後、岡部さんは中学生になってからも賢治のバラについて新たな情報を発見するたびにメールを下さり、私との間のやりとりは続いていたのですが、このたびはもう高校生になって、上記のように賢治にゆかりの曲などを、花巻の地でピアノ演奏されるということです。

 このイベント全体の構成も、音楽や踊りや語りが有機的に組み合わされて、多面的な賢治の世界を象徴的に表現しているようで、とても面白いですね。
 いろいろな方が舞台に上られるようですが、私が岡部さんのお話を聴いていて以前から感じているのは、まだ年若い岡部さんがいろんな人たちと出会い、どんどん人とのつながりを作っていく、その「ネットワーク力」の素晴らしさです。きっと、今回の企画にも、そのような岡部さんの「出会い」の力が、大きく反映しているのだと思います。

 残念ながら、私はこの日に花巻に聴きに行くことはできないのですが、お近くの方、関心がおありの方は、12月7日にはぜひイーハトーブ館にご来聴下さい。

賢治万象―こころの森の交歓会

日時: 2013年12月7日(土) 13:00開演(12:30開場)
     入場無料
場所: 宮沢賢治イーハトーブ館 ホール
    (花巻市高松1-1-1)
出演: 岡部 和保
     春日流鍋倉鹿踊り保存会
     浅沼 利一郎


 


マケイシュバラと蛙

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 賢治が1928年(昭和3年)6月に上京した時の作品に、「自働車群夜となる」があります。
 1926年(大正15年)12月以来、賢治が1年半ぶりに見た東京の街路には、煙を立て蛙のような声でラッパを鳴らす、「自働車」の集団があふれていました・・・。

  自働車群夜となる

博物館も展覧会もとびらをしめて
黄いろなほこりも朧ろに甘くなるころは
その公園の特にもうすくらい青木通りに
じつにたくさんの自働車が
行水をする黒い烏の群のやうに集って
行ったり来たりほこりをたてゝまはったり
とまって葉巻をふかすやうに
ぱっぱと青いけむをたてたり
つひには一列長くならんで
往来の紳士やペンテッドレデイをばかにして
かはりばんこに蛙のやうに
グッグッグッグとラッパを鳴らす

      マケィシュバラの粗野な像

最后に六代菊五郎氏が 赤むじゃくらの頬ひげに
白とみどりのよろひをつけて
水に溺れた蒙古の国の隊長になり
毎日ちがったそのでたらめのおどりをやって
昔ながらの高く奇怪な遺伝をもった
仲間の役者もふきださせ
幕が下がれば十時がうって
おもてはいっぱい巨きな黒い烏の群
きまった車は次次ヘッドライトをつけて
電車の線路へすべって出るし
きまらないのは磁石のやうに
一つぶ二つぶ砂鉄のかけらを吸ひつけて
まもなくピカリとあかしをつける
四列も五列もぞろぞろぞろぞろ車がならんで通って行くと
三等四等をやっとの思ひで芝居だけ見た人たちは
肩をすぼめて一列になり
鬼に追はれる亡者の風に
もうごく仲よく帰って行く

 当時の東京は、1923年(大正12年)に襲った関東大震災から目覚ましい復興を遂げつつありましたが、実はこの災害こそが、日本の社会に自動車を普及させる大きなきっかけとなっていたのです。

 こうした状況下で1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生し、東京や京浜地帯が大規模な火災に見舞われる。10万人近くが死亡し、被害総額も大きく、150億円程度と推定される当時の年間国民総支出の過半にのぼった。約4,500台を数えた東京市内の自動車も20%以上が失われた。しかし、この災害が、その後の自動車普及を促進する。
 大震災によって、軌道を破壊された汽車や電車などの公共交通が、まるで役に立たなくなったからだ。それに対して自動車は、応急の交通機関として大活躍した。たとえば、「市内電車が開通するまで......市街自動車、臨時乗合自動車、臨時乗合船が主な交通機関として活躍したが、9月中の乗合自動車の1台についての平均延乗客数は、前年9月の約2倍に達している」(『東京百年史』1979)。
 荷物の運搬も同様である。震災直後、国の内外から送られて芝浦桟橋に放置されていた莫大な量の救援物資が、内国通運(後の日本通運)の組織した民間輸送委嘱団の小型自動車の手で、たちまち一掃された。そこで政府は、翌年3月末までの期限を定めて輸入自動車の関税の優遇措置を講じた。これに乗じて、市電に壊滅的打撃を受けた東京市電気局はアメリカからT型フォード800台を輸入して乗合自動車として重用。のちに「円太郎バス」と親しまれることになる。
 こうして関東大震災以後、「人と貨物の輸送手段」としての自動車普及が加速した。(高田公理「日本社会と自動車」2008より)

 この描写は、東日本大震災によって運行不能となった三陸沿岸の鉄道と、その後のバスによる振替輸送やBRT(バス高速輸送システム)の導入を彷彿とさせ、今後の三陸の復興を考える上では、私たちをちょっと複雑な思いにもさせます。
 しかし震災というものが、その後の交通手段のあり方に与える影響には確かに甚大なものがあったようで、それは下のグラフを見てもおわかりいただけるでしょう。これは、片山三男「明治・大正・昭和初期の道路交通史」の「表2 諸車保有台数の推移」のデータより、1912年(大正元年)から、賢治が没する1933年(昭和8年)までの、人力車、乗用馬車、自動車の台数をグラフ化してみたものです。

 大正-昭和初期の諸車台数推移

 このグラフを作ってみて、まず私が意外に感じたのは、大正時代の日本にはまだ「人力車」がこんなにもたくさん走っていたのか、ということです。何となく明治時代の風物のように思っていましたが、大正期においてもその数は、馬車よりも自動車よりも、桁違いに多かったのです。関東大震災前年の1922年(大正11年)までは、人力車の台数は若干減ってきているとは言え、まだ決定的な凋落というほどの状況ではありませんでした。
 それがおそらく震災の影響で、人力車台数は1923年にがくんと減少し、その後はまるで坂道を転げ落ちるかのように、急激な衰退の道をたどっていきます。
 一方、ちょうどそれと入れ替わりに、震災後に一躍増加のカーブを示したのが、「自動車」の台数でした。

 そして、「人力車」と「自動車」の台数がついに逆転し、新旧の主役がまさに入れ替わったのが、くしくも賢治が東京に出て「自働車群夜となる」を書いた、1928年(昭和3年)のことだったのです。
 というわけで、ちょうど賢治の後半生というのは、日本における道路交通手段の一大転換期に当たっていました。彼にとってはほんの1年半ぶりの東京でしたが、自動車増加のカーブが最も急峻だったこの時期、一気に街路を制圧した自動車の群れを目にした賢治は、一種異様な印象を受けて、この作品を書いたのでしょう。

 だいたいにおいて賢治という人は「新しもの好き」で、多くの人が戸惑うような新奇な物に対しても、抵抗感より強い好奇心を抱くタイプだったと思うのですが、しかしこの「自動車」なるものが街を席巻する様子に対しては、かなりの違和感を覚えているようですね。
 「あまちゃん」における北三陸駅駅長・大向大吉氏が、「モータリゼーション」の浸透を嘆いていたことなども、ちょっと連想します。

◇          ◇

 まあ自動車に関する時代背景はこのくらいにして、「自働車群夜となる」の作品本文を見てみます。

 まずは題名の、「自働車」という漢字がおもしろいですが、これは何も賢治の創案ではなくて、日本初の国産自動車メーカーの創業当時の名称が、「快進社自働車工場」だったことにも表れているように、「自働車」は 'automobile car'の訳語として、当時は一般に使われていた言葉の一つでした。しかし、元来'mobile'とは「動く」という意味ですから、その後一般化した「自動車」の方が、原語には忠実だったと言えます。
 一方、現代において「自働車」という言葉を見ると、私などはあの Google が実用化研究をしている「自動運転車」を、連想してしまいます。あれは「自分で動く」だけでなくて、まさに「自分で働いて」いますからね・・・。

 それはともかく、作品において賢治は自動車の集団を、「黒い烏の群」にたとえたり、また警笛を「グッグッグッグ」と鳴らす様子から、「蛙のやう」と表現したりもしています。夜の闇にまぎれて、運転している人の姿が目に入らなければ、この物体はまるでそれ自身が意志を持って動めいている、生き物のようにも感じられたでしょう。まさに「自動運転車」のようなイメージですね。
 「烏」や「蛙」の比喩は、そのちょっとした不気味さや、それでいてどこかに漂う滑稽さを表現するのに、まさにうってつけの感があります。なかでも「蛙」というのは、その鳴き声のみならず、まん丸く出っぱった目玉、お腹を低くして四つ足で接地している姿勢など、言われてみれば本当にぴったりの喩えです。

'Painted Lady' 10行目には、「ペンテッドレデイ」というカタカナ語が出てきますが、これは英語で'Painted Lady'、比較的大きなタテハ蝶の一種の通称で、右写真のように見事なものです(画像は Wikimedia Commons より)。
 賢治は推敲過程で、いったん「令嬢たち」と書いてから「ペンテッドレデイ」と直していますから、これは人間の淑女たちを指しているのでしょう。 烏や蛙に喩えられた自動車とは対極にある可憐さですが、烏や蛙に「ばかにされ」る立場に甘んじています。

 そしてまん中あたりに、問題の「マケイシュバラの粗野な像」という、よくわからない言葉が出てきますが、これは難しいので後にまわします。

六代目尾上菊五郎(「菅原伝授手習鑑」の菅丞相) その次に、「六代菊五郎氏」と出てくるのは、六代目尾上菊五郎のことで、これによってこの作品において賢治は、この日「歌舞伎座」の舞台を見に来ていたのだということが判明します。六代目菊五郎は、この前年の1927年(昭和2年)に、「市村座」から「歌舞伎座」に移っていたのです。(右写真は Wikimedia Commons より、「菅原伝授手習鑑」で菅丞相を演ずる六代目尾上菊五郎)
 そうすると、作品の3行目に出てくる「その公園」とは、日比谷公園のことだろうかとも思ったりしますが、はっきりしたことはわかりません。
 いずれにせよ、この1928年(昭和3年)当時の歌舞伎座は、1921年10月に漏電から全焼した後、再建工事中にまた関東大震災によって被災し、やっと1925年(大正14年)に完成した、三代目の立派な建物でした。この建物も、1945年に東京大空襲で消失します。

歌舞伎座(第3期)
歌舞伎座(第3期:1925-1945, Wikimedia Commons より)

 この時、賢治が観た歌舞伎の演目は何だったのでしょうか。作品中に、「最后に六代菊五郎氏が 赤むじゃくらの頬ひげに/白とみどりのよろひをつけて/水に溺れた蒙古の国の隊長になり・・・」とありますから、これは鎌倉時代の「元寇」を題材とした歌舞伎かと考えて、そのようなテーマの演目があるのか調べてみたところ、「科戸風元寇軍記(かとのかぜげんこうぐんき)」というのが見つかりました。
 その「元寇軍記」の内容を調べつつ、ふと『新校本全集』の年譜篇を見てみましたら、この「蒙古の隊長」が出てくる演目は、河竹黙阿弥作の「浪底親睦会」という大喜利で、この年の6月1日から25日までの間、歌舞伎座にかかっていたと書いてあるではありませんか(『新校本全集』第16巻「年譜篇」p.377 注38)。

 「浪底親睦会(なみのそこしんぼくかい)」とは、1881年(明治14年)に初演された滑稽浄瑠璃所作事で、海の底の竜宮城において、壇ノ浦の合戦で敗れ海に沈んだ平知盛が主催者となって、古今の様々な水難者・・・日本武尊の船が嵐に遭った時に海神の怒りを鎮めるために入水した妻の橘姫、安政の大獄で追われ西郷隆盛とともに入水した僧月照、京都の桂川に身投げ心中をした長右衛門とお半、自休和尚の愛に悩み身を投げた稚児白菊と後を追った自休、それに竜宮の乙姫と、河童や海坊主・・・などを招待し、「親睦会」を催すという趣向です。
 最後は、漁師の芝蔵と、当時最新式の潜水服に身を包んだ河太郎(五代目尾上菊五郎)が、乙姫との結婚の権利を賭けて踊り競べを行い、乙姫の判定で勝利を収めた河太郎が、目出度く乙姫と婚礼を挙げる、という幕切れになっていました。
 まあ、他愛もない笑劇ですが、当時は「親睦会」という言葉が流行り始めたところだったということで、これが意外に観客に受けて好評だったと、『明治文学全集9 河竹黙阿弥集』の、河竹登志夫氏による解説に書かれています。

 しかし、上の筋書きを見ていただいたらわかるとおり、河竹黙阿弥による原作では、「蒙古の隊長」は実はどこにも出てこないのです。
 『明治文学全集9 河竹黙阿弥集』の解説には、「後に六世菊五郎が復演」とあって、やはり六代目が演じたのはこれだったのでしょうが、潜水服がさほど珍しくもなくなった時代に合わせ、最後の「踊り競べ」を、「蒙古の隊長」の踊りに改訂したのかもしれません。
 ちなみに、こちらの「過去の俳優祭」というページには、平成6年5月26日に第28回俳優祭の演し物として、「浪底滑稽親睦会(なみのそこおどけパーティー)」という企画が行われ、「クラブ竜宮城の大ママ乙姫が中村雀右衛門、同小ママヒー子が七代目尾上菊五郎・・・」という配役で、伴奏の義太夫の方々は全員が黒い水泳用ゴーグルを着用して演奏したということですから、やはりいろいろ適当に趣向を変えて、お遊びをするのでしょう。

 おそらくこの蒙古の隊長による「でたらめのおどり」には、賢治も大いに笑ったのでしょうが、幕が下りて夜更けの街に出てみると、やはり「巨きな黒い烏の群」が居丈高に幅を利かせていました。歌舞伎座で三等四等の席で観たような人は、「鬼に追はれる亡者の風に」帰るしかなかったというわけです。「ひかりの素足」の一場面も、連想させられるところですね。

「浪底親睦会」(『明治文学全集9』より)
(『明治文学全集9 河竹黙阿弥集』より)

◇          ◇

 最後に、さっきは後まわしにしていた「マケイシュバラの粗野な像」という言葉について、考えてみます。

大自在天 まず、「マケイシュバラ」というのは、サンスクリット語の'Mahesvara'(マヘーシュヴァラ)のことで、インド神話の三最高神の一柱、破壊神である「シヴァ」を指しています。漢訳は「摩醯首羅」で、仏教に取り入れられると「大自在天」になりました。
 右の画像は Wikimedia Commons より、「三目八臂(三つの目と八本の腕)」の姿の「大自在天」です。
 詩の中で、「マケイシュバラの粗野な像」と言われているからには、自動車が集まっている「公園」に、その神様なり天人の「像」があるのかと考えてみることもできますが、日本の屋外の公園で、そのような像が立てられているところがあるなどとは、聞いたこともありません。

 しかし、その「像」というのがあるとすればそれはどういうものなのか、一応その姿を見ておきたいところです。
 日本でその最も有名なものは、京都の三十三間堂(蓮華王院)にある「二十八部衆像」の中の、「摩醯首羅王像」でしょう。しかしこれはちょっとネット上で画像が見つかりませんでしたので、下に兵庫県加東市の念佛宗無量寿寺佛教之王堂観音堂にある「二十八部衆像」より、「摩醯首羅王像」の動画を掲載しておきます。左手に「鳥杖」を持っているところは、三十三間堂のものと同じです。


 以上で、「マケイシュバラ」の姿形についてはひとまずわかりましたが、これが「自働車群夜となる」に登場してくるその意味については、まだ皆目見当も付きません。
 そこで、「賢治の作品で困ったらまず『語彙辞典』」ということで、とりあえず『定本 宮澤賢治語彙辞典』で「マケイシュバラ」を調べてみると、次のように書かれていました。

マケイシュバラ 【宗】 摩醯湿伐羅は Mahesvara(梵)の音写で、摩醯首羅(まけいしゅら)とも書く。宇宙の主宰神である大自在天のことで、三目八臂(三つの目と八つの腕)の姿が普通。シヴァ神の別名でもある。詩[自働車群夜となる]に「マケイシュバラの粗野な像」、詩「〔温く含んだ南の風が〕」の下書稿(一)[密教風の誘惑]の手入れ稿に「マケイシュバラははるかな北で/六頭首ある馬を御し/しづかに玻璃の笛を吹く」とある。両詩ともマケイシュバラが唐突に現れており、その意味するところは判然としない。

 ということで、頼みの『語彙辞典』をもってしても、残念ながら「その意味するところは判然としない」とのことです。ただ、「マケイシュバラ」が登場するもう一つの作品として、ここで指摘されている「〔温く含んだ南の風が〕(下書稿(一))」の手入れ稿は、あらためて確認しておく必要があるでしょう。
 下記に、その箇所を抜粋してみます。

たちまち百のちぎれた雲が
白鳥座から琴(ライラ)へかけて
難陀龍家の紋様を織り
マケイシュバラははるかな北で、
六頭首ある馬を御し
しづかに玻璃の笛を吹く
   ……蛙の族はまた軋り
      セヴンヘヂンは遠くでわらふ……

 これまた、難解な言葉がいろいろと出てきて、さらに手ごわい作品ですが、そもそもこの「〔温く含んだ南の風が〕」という作品は、賢治が夏(7月5日)の夜に天空一面の星々を眺めながら、西域方面の情景をイメージしているものでした。上記の最後には、「蛙の族はまた軋り…」という一節が出てきますが、作品全体の背景には一貫して、たくさんの蛙たちの鳴き声が響きわたっています(下記は「下書稿(二)」より)。

蛙の族は声をかぎりにうたひ
ほたるはみだれていちめんとぶ
  ……赤眼の蠍
     萓の髪
     わづかに澱む風の皿……
蛍は消えたりともったり
泥はぶつぶつ醗酵する
  ……風が蛙をからかって、
     そんなにぎゅっぎゅっ云はせるのか
     蛙が風をよろこんで、
     そんなにぎゅっぎゅっ叫ぶのか……

 さてここで、「自働車群夜となる」と「〔温く含んだ南の風が〕」という二つの作品を振り返ってみると、確かに『語彙辞典』が指摘するとおり、「両詩ともマケイシュバラが唐突に現れており…」というのが、素直な実感です。
 しかし、あえてその共通点を探ってみると、どちらにおいても「マケイシュバラ」は、「蛙の声」に乗って登場していることに気がつきます。前者では「グッグッグッグ」という音、後者では「ぎゅっぎゅっ」という声・・・。

Encyclopaedic Dictionary of Puranas, 第1巻 そこで、「マケイシュバラ」あるいはそのインドにおける元の名前である「シヴァ」と、「蛙」との間には、はたして何かの関係があるのか、調べてみました。
 すると、'Encyclopaedic Dictionary of Puranas'(Swami Parmeshwaranand 著)という本に、古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の「ウッタラ・カーンダ」の巻の叙述として、次のような記載がありました。

 ある時、マドゥラーという天女が、シヴァに敬意を表するためにカイラス山にやって来た。この時、シヴァの妻のパールヴァティは不在だった。マドゥラーは一人座しているシヴァと出会い、二人は秘かな情事に及んでしまった。帰還したパールヴァティは、マドゥラーのはだけた胸に、シヴァが体にまとっている灰が付着しているのを見つけて、怒りのあまりマドゥラーに呪いをかけ、蛙の姿にして12年間にわたり井戸の中に閉じ込めてしまった。心を痛めたシヴァは井戸のところへ行き、マドゥラーが蛙の姿で暮らす12年の後には、美しい乙女となり、名誉と力のある男と結婚できるだろうと告げた。

Encyclopaedic Dictionary of Puranas, 第1巻, p.845
Encyclopaedic Dictionary of Puranas, 第1巻, p.844(下線は引用者)

 つまりこのお話は、この世に意のままにならぬものなどないはずの最高神シヴァ(=マケイシュバラ)といえども、自らの過ちと妻の怒りの前にはなすすべもなく、許しを乞う蛙の声にひたすら胸を痛めつつ、12年間も聞きつづけているしかなかった、というアイロニーを語っているのです。
 'Five Holy Virgins, Five Sacred Myths'というインド神話に関する論文よれば、この逸話は、数々の版がある『ラーマーヤナ』の中でも、テルグ語版の「ウッタラ・カーンダ」の巻に記載されているということですが、またこれは日本語版Wilipediaの「マンドーダリー」の項目にも書かれてるエピソードで、それなりに知られていることなのでしょう。

 さて、ここでもしも賢治が、このシヴァと蛙のエピソードを知っていたとしたらどうでしょうか。「自働車群夜となる」では「グッグッグッグ」という蛙のような自動車のラッパ音を聞き、「〔温く含んだ南の風が〕」で「ぎゅっぎゅっ」と叫ぶ蛙たちの声を聞いた時、そこから蛙の声を悲しく聞いたという「シヴァ=マケイシュバラ」を連想したということも、ありえなくはありません。


 ということで、「マケイシュバラ」と「蛙」とのつながりについて考えてみたのですが、実はすでに入沢康夫氏は、『プリオシン海岸からの報告』所収の「スウェン・ヘディンの空想」という論考において、この「〔温く含んだ南の風が〕」と「自働車群夜となる」という二作品を採り上げた上で、そこに登場するキャラクター間の関係について、とっくに課題として提起しておられるのです。

 なお、マケイシュバラについては、やはり校本全集第十二巻(上)に収められている「『東京』ノート」中に記された「自働車群夜となる」という詩中にも、次のようにある。

じつにたくさんの自働車が
(六行略)
かはりばんこに蛙のやうに
グッグッグッグとラッパを鳴らす
(一行アキ)
      マケイシュバラの粗野な像

 右の一行は、あるいはメモ的な記入かもしれないが、蛙の声と結びつくような形で、これが記されていることは、賢治の想像的世界の中で、どうやら、「蛙」と「マケイシュバラ」と「ヘディン」の三者に、かなり濃密なつながりがあったことをうかがわせる。蛙とヘディンの関係は、ヘディンが砂漠で蛙を喰べたというエピソードが当時かなり知られていたということは、草野心平氏の詩その他で知ることができる。だが、これも、当時の日本で広く知られるもととなった本が何かとなると、今の私にはわかっていない。これまた、識者の御教示にまちたいと思う。(『プリオシン海岸からの報告』p.196-197)

 上で、蛙とヘディンの関係を示すものとして触れられている「草野心平の詩」とは、『第四の蛙』(1964)所収の「新氷河時代」のことでしょう。

  新氷河時代

第五の氷河時代がいつかまた。
おとなしい地球にくるだらう。
南や北の極からぢりぢりと。
空気もひび割れ。
青ガラスの陣陣で迫つてくるだらう。
そうして蛙たちは死ぬだらう。
人間たちも死ぬだらう。
けれども蛙たちは死に絶えず。
人間たちも生きのこるだらう。
二つも三つも氷河の時代を経験した蛙たちは。
矢張りなんとか生きのこつて。
例えばさうだ。曽て蛙は。
タクラマカン沙漠のなかの草の河で。
ヘディンを死なせず生きる契機を與へて死んだのだが。
生きのこつてゐたから水たまりの水と一緒に協力してヘディンを
  死から救つたことはたしかである。
おだやかな地球に動植物は繁栄し。
蛙たちも鳴きつづけた。
(おだやかでないのは核や爆弾)
(颱風圏。)
とは別にジリジリとやがて。
第五の氷河時代はくるだらう。

 ここで、「(蛙がヘディンを)死から救つた」というのは、タクラマカン砂漠で飢えて死にそうになっていた探検家スウェン・ヘディンが、蛙を捕まえて食べて、どうにか命をつないだというエピソードを指しています。金子民雄著『宮沢賢治と西域幻想』に、ヘディンの旅行記『アジア横断』(1899)からの次のような引用が掲載されていますので、下に孫引きさせていただきます。

 このとき夜の八時だった。水溜りから幾度も幾度も水を飲むと、焚火を起し、その脇に坐って、長いこと焔をじっと見詰めていた。しかし、私は飢えの苦しみに苛れた。少しは腹の足しにしようと思って、いくらかの草とか葦の新芽、また水溜りから若い蛙の群(a bunch of young frogs)を集めた。この蛙は手に負えなかった。そこで頭の後部をつまんで呑み込んでしまった。(金子民雄『宮沢賢治と西域幻想』p.116)

 入沢氏が想定しておられるように、「賢治の想像的世界の中で、どうやら、『蛙』と『マケイシュバラ』と『ヘディン』の三者に、かなり濃密なつながりがあった」とすれば、この砂漠におけるエピソードは「ヘディン」と「蛙」の二項をつなげてくれるものでした。
 そして、今回ご紹介したシヴァ神と蛙乙女の話は、「マケイシュバラ」と「蛙」との関係を示唆するものです。

 まあ、賢治がこのようなインド神話の一挿話を知っていたかどうかは全くわかりませんが、たまたま個人的に今月初めに、福島県いわき市の「草野心平記念文学館」を訪ねて、たくさんの蛙たちに出会ってきたというご縁もあり、ここにメモとして記しておきます。

ごびらっふ

火薬店と銀行

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 『春と修羅』の終わり近く、「風景とオルゴール」の章に「火薬と紙幣」という作品があります。

   火薬と紙幣

萓の穂は赤くならび
雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
鳥は一ぺんに飛びあがつて
ラツグの音譜をばら撒きだ
   古枕木を灼いてこさえた
   黒い保線小屋の秋の中では
   四面体聚形(しゆうけい)の一人の工夫が
   米国風のブリキの缶で
   たしかメリケン粉を捏(こ)ねてゐる
鳥はまた一つまみ、空からばら撒かれ
一ぺんつめたい雲の下で展開し
こんどは巧に引力の法則をつかつて
遠いギリヤークの電線にあつまる
   赤い碍子のうへにゐる
   そのきのどくなすゞめども
   口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
   たれでもみんなきのどくになる
森はどれも群青に泣いてゐるし
松林なら地被もところどころ剥げて
酸性土壌ももう十月になつたのだ
   私の着物もすつかり thread-bare
   その陰影のなかから
   逞ましい向ふの土方がくしやみをする
氷河が海にはいるやうに
白い雲のたくさんの流れは
枯れた野原に注いでゐる
  だからわたくしのふだん決して見ない
  小さな三角の前山なども
  はつきり白く浮いてでる
栗の梢のモザイツクと
鉄葉細工(ぶりきざいく)のやなぎの葉
水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
枝も裂けるまで実つてゐる
   (こんどばら撒いてしまつたら……
    ふん、ちやうど四十雀のやうに)
雲が縮れてぎらぎら光るとき
大きな帽子をかぶつて
野原をおほびらにあるけたら
おれはそのほかにもうなんにもいらない
火薬も燐も大きな紙幣もほしくない

 4行目に出てくる「ラツグ」は、rag すなわちラグタイム・ミュージックのことでしょうが、そんな明るい曲を口ずさみながら、または口笛で吹きながら、秋の野を大股で歩く賢治が目に浮かびます。
 『春と修羅』の前半部においては自らの「修羅性」に向き合おうとして、半ば過ぎにはトシの死があって、この詩集の大半ではどうしても悲愴な調子の作品が目立っているのですが、最終章の「風景とオルゴール」は、総体としてこういう清涼感のある作品群でできている感じがします。

 さて、この作品の「火薬と紙幣」という題名が、最終行の「火薬も燐も大きな紙幣もほしくない」という箇所に由来しているのは、まあ明らかでしょう。「火薬」とは、「武力」の隠喩であり、「紙幣」とは、「経済力」の隠喩であり、合わせてこの社会を支配している世俗的な「力」というものを象徴させているのでしょうか。
 しかし、この作品を全体として読んだ時、印象に残るのは爽快な秋の野山の風景であり、白く冷たい雲であり、群れになって飛ぶ鳥たちです。作者賢治が心を奪われているのはこれらの景色の方であって、題名の「火薬と紙幣」とは、賢治が「ほしくない」と言っている方の象徴なのです。
 ですから私としては、なぜことさら賢治が、自分の興味がないものをわざわざ持ってきて「火薬と紙幣」という題名としたのだろうかと、以前から何となく不思議な感じがしていました。

 そんなことを心の底で思っていたところ、新岩手日報社編『昭和県政覚書』(1949)という本の中に、大正末期から昭和初期にかけての盛岡地方は、「財界の分野は大体…三田義正、中村治兵衛、金田一国士の三系統」に三分されていたという記載があるのを知って、私は何となくこの作品タイトルを連想したのです。
 三田義正(1861-1935)は、1894年に「三田火薬販売所」を設立し、日清戦争後の鉱山熱により火薬の需要が拡大していた時流に乗って、事業を拡張していきます。後には貴族院議員ともなり、私立岩手中学の創設も行うなど社会貢献にも力を入れました。
 中村治兵衛(1851-1927)は、盛岡の商家「糸屋」の中村家の婿養子となって「治兵衛」を襲名し、岩手銀行頭取、盛岡市会議員などを務めた人です。「糸屋」は江戸時代に南部紫根染の布地問屋をしていた縁から、明治維新後に衰退したこの技術を再興するために、1916年に「南部紫根染研究所」を設立しますが、これは賢治の作品「紫紺染について」のモチーフにもなっています。
 金田一国士(1883-1940)は、以前にこのブログでも取り上げましたが、金田一勝定の養子となって、花巻温泉開発など各種事業を展開し、盛岡商工会議所会頭、盛岡銀行頭取をはじめ30余りの役職を占め、一時は他の二人を圧倒し、岩手県全体の財界を支配するほどの権勢を誇った風雲児でした。
 ある時期の岩手県経済界は、金田一国士系統=盛岡銀行=岩手日報と、中村治兵衛系統=岩手銀行=岩手毎日新聞と、二つの派が対立・抗争を繰り広げる状態にあったことは有名です。

 ということで、賢治が『春と修羅』を書いていた頃の岩手県を牛耳っていたという三人のうち、一人は「火薬商」で、二人は仲の悪い「銀行家」で、つまり文字どおり彼らは「火薬と紙幣」を扱っていたというわけです。
 まさに世俗的な権力を、象徴としてでなく現実的な事業によって体現していたわけで、この作品が、「火薬と紙幣」と題されている背景には、こういう事情もあるのかな・・・、とふと思った次第です。

【参考文献】
小川 功: 機関銀行と機関新聞―近江商人進出地・盛岡の金融破綻―

春日明神さんの帯(メモ)

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 童話「風の又三郎」において、三郎は谷川の岸の小さな村に、地元の子どもたちが知らないようなさまざまな話を、外部の世界からもたらします。みんなは、三郎が帯びている「異界」の雰囲気に一方で畏れをいだきながらも、だんだんと親しみを覚えていきます。
 下記の箇所でも子どもたちは、三郎のとっぴな形容に興味を引かれます。その意味するところについて、みんな本当は三郎にあれこれ質問をしたかったでしょうが、彼我の間に横たわる見えない距離を計りかねて、結局は黙ってしまいます。こういう何気ない子どもの雰囲気描写も、賢治らしく素敵にユーモラスな箇所です。

 四人は林の裾の藪の間を行ったり岩かけの小さく崩れる所を何べんも通ったりしてもう上の原の入口に近くなりました。
 みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰ったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向ふに川に沿ったほんたうの野原がぼんやり碧くひろがってゐるのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のやうだな。」又三郎が云ひました。
「何のやうだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のやうだ。」
「うな神さんの帯見だことあるが。」
「ぼく北海道で見たよ。」
 みんなは何のことだかわからずだまってしまひました。

 子どもたちは、三郎が実は風の精霊だろうと半分信じているのですから、それならどこか異界において、その目で「神さんの帯」を見ていてもおかしくはないと思い、しかし次にはそれが「北海道で見た」などと現実的な話に接続してしまうものですから、いったいその話をどのレベルで受けとめたらよいのか、わからなくなっているんですね。
 しかし、作者によるこの物語世界の設定においては、三郎は(ちょっと変わったところはあるけれど)あくまでも普通の人間の子どもです。妙に科学的な説明を述べる場面はあっても、その逆に神様の姿を直に見るなどという、超自然的体験を期待されている役柄ではありません。
 ですから、この「春日明神さんの帯」というのは、何か現実世界の中で一般人も見ることができる、「物」のはずです。

 ではいったいこれは何なんだろうというのは、誰しも気になるところだとは思いますが、ここで例によって『定本 宮澤賢治語彙辞典』を繙いてみると、この言葉は次のように説明されています。

 春日明神の帯 かすがみょうじんのおび 【文】【レ】 文語詩[岩手山巓]や童[風の又三郎]等に出てくる「帯」や「おん帯」は、春日神社(春日大明神、春日権現とも)の社殿正面の礼拝所に梁から吊り下げられている銅製の鰐口(金口とも)をガランガランと鳴らすのに、太い布で編んだ綱(たいてい紅白の)と一緒に垂らしてある布(たいてい二本)を、和服にしめる兵児帯に診立てた呼称と思われる。あるいは賢治の機知の命名か。

 つまり、神社で参拝する時に、「鈴」や「鰐口」(銅鑼を二枚合わせたような形の扁平な鈴)を鳴らすために下げられている「綱」または「紐」、あるいはそれと一緒に垂らしてある「布」だというわけですね。ちょっと調べてみると、この索状物の名前は、「鈴の緒」というのだそうです。
 なるほど、確かにこれも一つの解釈だとは思うのですが、しかし私としては、何となく違和感が残るところはあります。

 たとえば、三郎は高いところから川の流れる様子を見て「春日明神さんの帯のやうだ」と言っていますが、紅白だったり茶色だったりするこの太い「鈴の緒」の、一体どういうところが、「川」に似ているのでしょうか。
 また、私も行って確認してきたのですが、少なくとも奈良の「春日大社」正面の参拝所には、「鈴」や「鈴の緒」は存在しないのです。そのことは、ネット上ではたとえばこちらの画像を見ていただければわかります。そもそも、神社で鈴をガラガラと鳴らして拝むようになったのはおもに戦後のことで、それ以前には正面の「鈴」は、現在ほど一般的ではなかったということです。

 ということで、この言葉について何となく釈然としないまま日々をすごしていたところ、たまたま先週12月17日には、春日大社の祭礼である「春日若宮おん祭」が、奈良で盛大に執り行われました。これに合わせて、今ちょうど奈良国立博物館において、「おん祭と春日信仰の美術」という特別陳列が開催中であることを知り、何か少しでも「春日明神さん」について参考になることはないかと思って、昨日は冬至の奈良へ出かけてきたのです。

◇          ◇

特別展図録『おん祭と春日信仰の美術』 その特別陳列の内容に行く前に、そもそも「春日明神」とはどういう神様なのかということについて、まずは知識の整理をしておきましょう。調べてみると、これがけっこう複雑なのです。

 奈良の「春日大社」は、摂関家藤原氏の氏神として尊崇され発展していきますが、そのルーツをたどると、奈良盆地の東に位置する春日山・別名御蓋山(みかさやま)が、古代から「神奈備の山」として人々から受けてきた、素朴な信仰に行きつくようです。
 遣唐使の阿倍仲麻呂が、遠い異国の地で故郷を懐かしんで詠んだ歌、

天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に いでし月かも

にこめられているように、古くから春日の山は、この奈良の地で暮らす人々にとって、心のよすがだったのでしょう。
 この春日のあたりに、藤原氏も何らかのゆかりを持っていたと推測されていますが、その後着実に朝廷における地位を高めた藤原氏は、768年に常陸国の鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を、下総国の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)をそれぞれ勧請し、この地に自らの氏神として、「春日社」を創建します。
 『古社記』によれば、御蓋山には古くから老神が住んでいたが、鹿島大神が南大和の安倍山に着いた際、老神は御蓋山を譲って自らは安倍山に退去したものの、その後安倍山の閉居は堪えられなくなり、御蓋山に帰還を請うて許され、春日社の片隅の榎本神社で、地主神として祀られるようになったということです。

 その後、都は平安京に遷り、南都は全体としては寂れていきますが、栄華を極める藤原氏の氏神である春日社は、篤い保護を受けつつ威厳を保ちつづけました。そして伊勢神宮、石清水八幡宮とともに、日本の「三社」と並び称されるようになっていきます。
 しかしその一方で、同じ藤原氏の氏寺であり、隣に広大な敷地を構える興福寺との関係が、徐々に微妙になっていったのです。
 平安時代には、人々の神と仏に対する信仰が混じり合っていく「神仏習合」が広く進展しましたが、この一体化は、「仏」こそが超越的存在の本質であって、日本固有の「神」はその仏が仮の姿をとって現れたものにすぎないという、「本地垂迹説」に基づくものでした。すなわちこれは、「神」よりも「仏」を上位に置く思想で、当時は仏教の方が、国家権力と密接な関係にあったことを反映しています。

 仏教と権力との結びつきを梃子にして、大規模な石清水八幡宮や八坂祇園社においても、その祭祀の実質的な権限は、神宮寺の僧侶が行うようになっていましたが、興福寺の僧侶も、何とかして由緒ある春日社の祭祀権を握ろうと、摂関家に対してさまざまな働きかけを行います。しかし春日社側も、それを何とか食い止めていました。
 ところが平安末期になって、ついに一線が越えられます。すでに1003年に、春日社第四殿に小さな蛇が現れ、これを機に小さな祠が設けられていましたが、その後旱魃や疫病が流行したのは、この時顕現した春日神の御子=若宮を正しく祀っていないからだと、興福寺の大衆(僧侶集団)が主張しはじめます。そして興福寺側は、春日社の中に「若宮」を正式に祭祀することを発願し、それは摂関家を通して官から認められ、1135年に春日社に「若宮」が鎮座することとなりました。そして翌年からは、現在まで盛大に続く「若宮おん祭」が毎年挙行されることとなったのです。

 それまでの春日社の信仰は、藤原摂関家や朝廷など最上流階級に限られたものであったのに対して、「若宮お若宮おん祭の「風流傘」ん祭」の基盤には興福寺三千衆徒のエネルギーがありました。またこの祭の背景には、京都の祇園祭のように疫病や災害を鎮めるために「神様をもてなし喜ばせる」という目的があったので、様々な趣向を凝らした「風流行列」や、競馬、流鏑馬、舞楽、田楽、猿楽、相撲など、一般庶民にとっても見ていて楽しい催し物が尽くされます。右写真は、頭に豪華な「風流傘」を載せて歩く、田楽座の人です。(上田正昭編『春日明神』筑摩書房より)

 このようにして祭りの人気が人々の間に浸透するにつれ、「春日明神」に対する信仰も、各地に広まっていきました。もとは一貴族が自らの氏神として、一門の繁栄を祈三社託宣掛物願する対象であった神が、一般庶民も様々な思いを託して祈る神となったのです。それとともに、奈良以外のあちこちに「春日神社」ができていくこととなり、現在「神社ポータルサイト日本神社」というサイトで検索すると、全国で「春日神社」という神社は、58社あります。ちなみに三郎は、北海道で「春日明神さんの帯」を見たと言っていましたが、北海道には「春日神社」は存在しないようです。
 右図は、室町時代から近代に至るまで、庶民の家に掛けて拝まれた「三社託宣掛物」というもので、先に述べた日本の「三社」、すなわち伊勢神宮、石清水八幡宮、春日大社の三つの祭神である天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神を並べ、それぞれの神徳である、「正直」(伊勢)、「清浄」(八幡)、「慈悲」(春日)というモラルについて説明を加えたものです。(上田正昭編『春日明神』より)
 このようなところにも、「春日明神」に対する信仰が、全国津々浦々の民衆にまで広がっていたことが、表れています。

 というわけで、かなり繁雑な話になってしまいましたが、春日の神様は奈良にかぎらず、広汎に信仰を集めており、しかも単に「春日明神」と言っても、一柱の神様だけを指しているわけではないのです。
 最初に春日社が創建された時には、これは「春日四所大神」と呼ばれ、鹿島から勧請された武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取から勧請された経津主命(ふつぬしのみこと)、それに(おそらく中臣氏→藤原氏のルーツである)枚岡から勧請された天児屋根命(あめのこやねのみこと)、そしてその妃神である比売神、という四柱の神々を指していました。
 それに加えて、上述のように平安末期に新たに鎮座した、「若宮」=天押雲根命(あめおしくものみこと)を合わせ、その後は「春日五所大神」と呼ばれるようになっています。
 つまり「春日明神」の実体は、この五柱の神々の総称ということになるわけです。

◇          ◇

 ということで、ようやく奈良国立博物館の「おん祭と春日信仰の美術」の話に移ります。
 「春日明神さんの帯」という言葉を文字どおり解釈すると、童話の中で一郎がストレートに質問したごとく、「神様が締めている帯」ということになります。ただここで私たちとしては、「仏様」ならばさまざまな仏像を見慣れていますから、その身なりについても馴染みがありますが、神道の「神様」がどんな帯を締めているのかと言われても、ちょっとピンときません。
 はたして春日明神の衣装について、具体的に知ることはできるのでしょうか。

「鹿島立神影図」(春日大社蔵) これに関しては、今回の特別陳列で展示されていた「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」というものが、五所大神のうちで第一殿にに祀らていれる、武甕槌命の姿(神影)を描いています。(右図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)
 これは、武甕槌命が常陸の鹿島神宮から御蓋山にやって来たという伝承を絵にしたもので、神様は、当時の貴人の衣装である「束帯」を身に付け、乗っているのは馬ではなくて、鹿島と奈良の縁を象徴する動物=鹿です。後ろの金色の円は御神体の鏡で、ここではほとんど見えませんが、その中には五神の各々の本地仏とされる、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩、観音菩薩、文殊菩薩が描かれています。
 画面一番上に描かれた山は御蓋山、一番下に控える二人の随身は、後の春日社司の祖先とされる人です。

 さて、この絵ではあまり大きくは見えませんが、赤い「」と呼ばれる上衣の腰のあたりとお腹のあたりに、少しだけ黒い部分が覗いています。これが、「石帯」と呼ばれる帯で、当時の束帯装束で用いられたベルトなのです。材質は黒皮製で、背中の方には瑪瑙やサイの角などの飾り石を縫い付けてあるため、この名前があります。黒い色は、漆を塗ってある鹿島立神影図ためで、かなり硬いものだったようですね。「石帯」の画像検索結果を見ていただくと、大体どんなものかおわかりいただけるでしょう。

 ということで、まずはこれこそが、文字どおりの意味で、「春日明神さんの帯」であるわけです。
 しかしこんな黒色の単なるベルトでは、「高所から眺めた川の流れ」の比喩としては、全くピンときません。『語彙辞典』における「鈴の緒」と、五十歩百歩と言ったところでしょうか。
 念のために右に春日明神さん部分の拡大図を載せておきます。帯の背中の方の部分には、飾り石が見えているかもしれません。
 ただいずれにせよ、この春日明神の図像における「帯」を、「風の又三郎」で使われた比喩に結び付けるのはむずかしいようですね。

「春日赤童子像」(植槻八幡神社蔵) 次に、春日明神の中でも最も遅く登場し、「おん祭」の主人公として大活躍するところの、「若宮」の図像です。
 これは、「春日赤童子像」というものですが、こっちは上の絵の上品さとはかなり違って、さすがに災害や疫病などの祟りをなす暴れん坊の神様だけあります。手には棒杖を持ち、顔は忿怒相です。(右図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)
 上半身は裸で裳を巻き、ストールのような腰布を付け、これは不動明王の侍者である「制多迦童子」の姿に基づいていると考えられています。
もとはインドの衣装なのでしょう。
 そしてここには、何か一風変わった装飾を伴う腰帯が描かれているのですが、はたして具体的にどんな帯なのか、これだけでははっきりしません。

 ということで、こちらの「春日明神さんの帯」は、デザイン的にはかなり興味深いものの、詳しい形状は不明です。それに、これを「川の流れ」の比喩として用いるには、やはり疑問が残ります。

 以上の二点が、今回の特別陳列に出されていた品々の中で、「神様の帯」という表現に、直接当てはまるものでした。
 しかしこれ以外にも、「若宮おん祭」には様々な豪華絢爛な装束を着た人々が大勢行列をなして出てくるわけですから、そこにはまた多彩な「帯」が登場します。
 それらは、厳密には「神様の帯」ではありませんが、「春日明神のお祭りで見られる帯」ではあります。この種のものまで範囲を広げて調べるとなるとかなり大変ですが、今回の特別陳列において、現物の「帯」として一つだけ展示されていた品物がありました。

 それは、若宮が遷幸した先の「御旅所祭」で行われる舞楽の一つ、「納曾利」という舞いで使われる装束に巻く「銀帯」です。(下図は、『おん祭と春日信仰の美術』図録より)

納曾利装束銀帯

 これは、腰のあたりで背中側に見えるように巻く帯だそうで、安土桃山時代に作られたものということですが、今も鈍く輝く銀色が、とても印象的でした。その形が、はたして「川の流れ」の比喩として適切かどうかはわかりませんが、この色だけは、遠くから眺めた川面の輝きの形容として、悪くないかなと思いました。

◇          ◇

 以上、いろいろと見てみましたが、結局のところ「春日明神さんの帯」という比喩が何を表しているのか、春日大社や若宮おん祭に関連した品々をざっと見るだけでは、よくわかりませんでした。
 お読みいただいて、何かますますこんがらがってしまったというお叱りを受けるような感じもしますが、これもひょっとしたらどなたかの参考になるかもしれないと思い、今回調べたことをここにそのまま記しておきます。

【参考文献】
・上田正昭編『春日明神 氏神の展開』(筑摩書房,1987)
・奈良国立博物館特別陳列『おん祭と春日信仰の美術』図録(2013)

岡田式静座法と賢治の催眠感受性

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 現代もまた、「健康」が多くの人々の関心事となっている時代です。毎日テレビショッピングには、入れ替わり立ち替わり新たな「健康食品」や「健康器具」が登場してその効能が喧伝されますが、今からおよそ100年前の大正時代にも、雨後の筍のように様々な「健康法」が現れては、それぞれがブームを巻き起こしていたのです。
 たとえば、この時期に登場して人々を惹きつけた「健康法」には、以下のようなものがありました。

岡田式静座法 (岡田虎二郎)
藤田式息心調和道 (藤田霊斎)
二木式腹式呼吸法 (二木謙三)
浅野式曖気療法 (浅野秋蔵)
石塚式食養法 (石塚左玄)
岩佐式強健法 (岩佐珍儀)
江間式心身鍛練法 (江間俊一)
大泉式一分間健康法 (大泉三朗)
銀月式実用強健法 (伊藤銀月)
弦斉式日本人標準食 (村井弦斎)
坂本屈伸道 (坂本謹吾)
自彊術 (中井房五郎)
足心道 (柴田通和)
綜統医学 (多田政一)
高野式抵抗養生法 (高野太吉)
西式健康法 (西勝造)
肥田式強健術 (肥田春充)

 これ以外にもマイナーなものは種々あったようで、現代日本で行われている様々な「健康法」も、元をたどればほとんどがこの時代にルーツがあると言われるほどです。中でも太字にした上の三つは、とりわけ多くの人々にもてはやされ、当時の「三大健康法」と呼ばれていたものです。
二木謙三 ちなみに、上から三人めの二木謙三氏(右写真:ウィキメディア・コモンズより)は、賢治の妹トシが永楽病院に入院した時の主治医だった人で、賢治も妹の病状説明を直に何度も聞くなど、浅からぬ縁がありました。この人は後に文化勲章も受章した東大医学部教授で、「鼠咬症スピロヘータ」を発見するなどして一時はノーベル医学・生理学賞の候補になったという噂もあります。一方で、今は皆が知っている「腹式呼吸」という言葉を初めて世に広め、玄米食を提唱するなどの活動もした、多面的な人物でした。

 さて、このような健康ブームの時代に思春期を迎えた賢治も、否応なくその洗礼を受けることになります。とくに彼は中学校では体操を苦手としていて、「強健な身体」というものには一種のコンプレックスを抱いていた節がありますから、こういう「健康法」に憧れるところは、人一倍あったのかもしれません。
 ということで、賢治が盛岡中学4年の1912年(大正元年)11月3日付けの父親あて手紙(書簡6)に、次のような一節が現れます。

 又今夜佐々木電眼氏をとひ明日より一円を出して静座法指導の約束を得て帰り申し候 佐々木氏は島津(ママ)大等師あたりとも交際致しずいぶん確実なる人物にて候。静座と称するものゝ極妙は仏教の最後の目的とも一致するものなりと説かれ小生も聞き囓り読みかじりの仏教を以て大に横やりを入れ申し候へどもいかにも真理なるやう存じ申し候。(御笑ひ下さるな)もし今日実見候やうの静座を小生が今度の冬休み迄になし得るやうになり候はゞ必ずや皆様を益する一円二円のことにてはこれなしと存じ候 小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はゞ下手くさく体操などをするよりよっぽどの親孝行と存じ申し候

 まだ賢治は16歳ですが、「小生の筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はゞ…」という願望を述べている部分は、その後の彼の生涯を知る者の胸には、何か痛切に迫ってくるものがあります。晩年に、「〔雨ニモマケズ〕」に結晶する彼の思いの萌芽は、すでにここにあったのかとも感じます。
 いずれにせよ、この日賢治は「静座法指導の約束」を得て、意気揚々と帰ったのでした。

 そして、次の日の葉書で、その「指導」の結果を父に報告します(書簡7)。

謹啓 昨日の手紙の通り本日電眼氏の指導の下に静座仕り候ところ四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し今後二ヶ月もたゝば充分卒業冬休みに御指導申す決して難事ならずと存じ候 まづは御報知まで  草々 敬具

 何よりも、「電眼」という名前がいかにも怪しげでそそるものがありますが、ここで賢治は、その怪しさからの期待そのままに、「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という、得体の知れない状態に陥ったというわけです。

 そして約束どおりその冬休みには、賢治は電眼氏を花巻の自宅に連れて来て、妹と父に「静座法」の指導を受けさせました。次の文章は、その時の様子を弟清六氏が記したものです。(宮沢清六『兄のトランク』所収「十一月三日の手紙」より)

 静座法の佐々木電眼という人は中学校寄宿舎附近に住居して、独特の方法で静座法を教えていた人で、島地氏や色々の人々とも昵懇であったようである。眼光炯々とした、あまり背の高くない精力的な一種の催眠術師であったと私は思っている。
 賢治は前の手紙とこの葉書にも書いたようにこの佐々木氏の指導で静座法を何ヵ月か習った。そして冬休みにこの人を連れて家に帰ったが、父や姉にも静座法をすすめたことを私は思い出すのである。
 電眼の暗示に誘導されて、姉のとしは見るまに催眠状態になったが、父は電眼が長い時間汗を流して懸命に努力したのであったが、いつまで経っても平気で笑っていたので、遂に電眼はあきらめて、雑煮餅を十数杯平らげて、山猫博士のように退散したのであった。

・・・という落ちがついているのでした(笑)。
 ここには、賢治の妹のトシも「催眠状態」になったと書いてありますが、いったいこの「静座法」なるものの正体がどういうものなのか、私としてはすこぶる興味があります。

 「静座法」という言葉からは、上のリストの中では「岡田式静座法」が当てはまるように思われ、現に上田哲氏は著書『宮沢賢治 その理想世界への道程』の中で、これは岡田式静座法であったと推測しています。
 一方、岡澤敏男氏は、「賢治と「静座法」」(盛岡タイムス連載<賢治の置土産>)において、「晩年の昭和7年6月1日に森佐一宛の書簡で「曾て教を得たる西式の一部こゝに残存し」と述べていることから西式健康法だったと推察される」として、これは「西式健康法」だったと考えておられます。
 しかし、この「西式健康法」が創始された時期を調べてみると、「西式健康法西会本部」のWebサイトによれば、「西式健康法は、昭和二年に東京地下鉄銀座線の機械技師だった西勝造によって創立されました」(西式の歴史と西勝造先生)とあり、また「西式健康法・断食道場」のサイトには、「西勝造教授によって、大正11年(1922年)に創始され、昭和2年(1927年)に公表された健康医学です」(入寮案内)とあります。
 つまり、賢治が佐々木電眼に静座法を習った1912年(大正元年)の時点では、まだ西式健康法は誕生していなかったわけです。となると、彼が指導を受けたのは、西式とは別のものだったと考えざるをえません。

 一方、岡田虎二郎氏が東京で「静座法」の指導を始めたのは、1904年(明治37年)ということですから、こちらは賢治が指導を受けた時期との関連では問題ありません。
 何よりも私が、この賢治の習った静座法は「岡田式」だったろうと考える理由は、岡田式静座法のユニークな特徴として、静座をしている人が、意図せずに「動揺」あるいは「振動」と呼ばれるような、独特の身体の動きを呈し始めるという点があります。これこそが、賢治が「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」と描写したところの現象だったのだろうと思うのです。

岸本能武太『岡田式静座三年』 たとえば、岸本能武太という人が1915年(大正4年)に著した『岡田式静坐三年』という本では、この「動揺」について、次のように述べられています。


第四章 身體の動揺

  第一節 静坐法と身體の動揺
   ▲動揺に関しての誤解と疑惑

 岡田式静坐法が、予の郷里なる岡山地方に輸入せられたのは、數年前の事であるさうだが、初めてこれを傅へた人が間違へて居たものか、或は彼れに習つた人々が、彼れを誤解したものか、岡田式静坐法の要領は、身體の動揺にあると考へられたものと見えて、今日に至るまでも同地方の人々は、静坐法と云へば身體の動揺を聯想して、身體さへ動揺すれば、それで静坐法を了解し得たかの如くに誤解し、「私は岡田式にかゝつた」とか、「あの人はまだかゝらぬ」とか云ふ時は、単にその人の身體の動揺如何を、意味することゝなつて居ると云ふ話である。
 一方には斯く動揺を欲する人々のあるに反し、今一方には動揺に関して疑惑を以つて居る人々が決して少なくない。實際静坐會などに於て、多くの人々が頭を振つたり手を動かしたり、色々様々に身體を動揺して居るのを見ると、如何にも狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く思はれる。

 「狐つきの寄り合ひの如く、氣違ひの集會の如く」とは、相当に異様な雰囲気だったのでしょう。
 この少し後の箇所では、その「動揺」の様子が、さらに具体的に描写されます。

   ▲動揺の種々

 此の身體の動揺には、色々種類がある。手を動かす人もあれば、頭を動かす人もある。肩を動かす人もあれば、腰を動かす人もある。頭の運動にも、或は前後に或は左右に、種々の運動がある。手の運動にも、その通りで、縦に振るものもあれば、横に振るものもあるが、握り合せた儘の兩の手で、下腹をポンポンと打つのが、最も普通の形である。或は端座の儘で、にじり廻る人もあれば、ピョンピョンと飛び廻る人もある。懸け聲を懸けて叫ぶ人もあれば、又妙な聲を出して唸る人もある。其れも三十分なり一時間の間、同じ運動を反復する人もあれば、運動を種々様々に變更する人もある。忽ち静かに、忽ち騒がしく、いまは石地蔵の如く、次には夜叉の如く、千態萬状の動揺を演ずるは、是れ實に静坐會の實況である。

 ということで、「静坐会」という名前とは裏腹に、これはもう「大騒ぎ」ですね。思えば20年ほど前に、とあるカルト宗教の創始者が、胡座をかいた姿勢で跳び上がっている写真を見せて、「超能力による空中浮遊だ」とか言っていたことがありましたが、大正時代には一度にたくさんの人々が正座をしたままであたりをピョンピョン飛び廻っていたというのですから、これはもう壮観の一語に尽きます。
 賢治の場合の「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」というのも、まさにこの「動揺」なのでしょうし、佐々木電眼という人も、きっとこの「岡田式静座法」の流れを汲んでいたのだろうと、私は思います。

 賢治が、一時的にであれこんな怪しげなものに熱中したことについて、上田哲氏は『宮沢賢治 その理想世界への道程』の中で、「わずか十六歳の少年が、疑似宗教的でシャーマニズム的傾向をもつ静座法などに関心をもち健康法の指導者というより行者的性格をもつ怪しげな施療師のところを進んで訪ね入門するなどということはいくら時代が違うといっても異様な感じがする」と述べており、確かに現代から見れば、そういう印象も受けてしまいます。
岡田虎二郎 しかし当時は、この創始者の岡田虎二郎という人は、独特の風格で人間的にも広く尊敬を集め、あの田中正造翁をして、「今度こそは我国にも聖人が生まれました」と評せしめ、また「岡田先生は福徳円満の御相で、奈良新薬師寺の本尊のよう」とも言われたということです。(右写真は『岡田式静坐三年』より)
 新宿中村屋を創業した相馬黒光女史は、明治44年から大正9年まで一日も休まずに静座会の道場に通ったということですが、その回顧録『黙移』の中では、

この道場にはおよそ社会の各層各階級の人が集まっていました。徳川慶久公、水戸様、二荒伯、相馬の殿様をはじめとして、有爵の方々、実業界の錚々たる人々、学者、芸術家、教育家、基督教徒、僧侶、芸人、相撲取、学生等々いちいち挙げるには限りもないほどでした。

と、その盛況ぶりを記しています。
 最盛期には、東京の百数十箇所で「静座会」が開かれ、会員は2万人にも及んだということですから、賢治は決して異端のカルト的な集団に身を投じたわけはないのです。
 当時の社会流行の波に、一時的に染まってみたにすぎなかった、ということだと思います。

 ただ、この創始者の岡田虎二郎は、静座法が隆盛を極めている真最中の1920年(大正9年)に、48歳の若さで急死してしまいます。死因は尿毒症で、長年の無理がたたったのだと言われましたが、「健康法」のカリスマ的な指導者が、自らあっけなく死んでしまったとなると、その「効果」に疑念の目が向けられるのも無理はありません。その後はまるで熱が冷めたかのように、ブームもあっけなく去ってしまったということです。

◇          ◇

 さて、ここで賢治が「静座」において呈した「全身の筋肉の自動的活動」、すなわちその信奉者の表現では「動揺」あるいは「振動」という現象について、ここで私はもう少し考えておきたく思います。

 この現象に対して宮沢清六氏は、トシの状態を「催眠状態」と表現し、佐々木電眼のことも「一種の催眠術師」と考えています。
 当時、心霊現象を研究していた心理学者の福来友吉博士も、この身体の「動揺」の原因を「意識統一の欠乏」にあるとして、これは「舞踏病、精神病、催眠術等における『自動作用』すなわち Automatic action と同一のもの」と断じました。
岸本能武太『岡田式静坐の新研究』 しかし、岡田式の信奉者側は、これを「催眠」と解釈されることに対しては強い反発があったようです。上にも登場した岸本能武太氏は、福来博士が「彼らはまず触覚を失い、視覚を失い、聴覚を失い、遂に全く無意識になる」と述べていることに対し、1921年(大正10年)の著書『岡田式静坐の新研究』において、次のように反論します。

併しながら少しでも静坐法を正式に練習した人々は、何人でも直ちに、此説明が如何に事實に正反對であり、同時に福來博士が、静坐法に關して無知で、又學者として如何に無責任であるかを感ぜぬものは無いであらう。若し萬一にも所謂静坐法を實行する者にして、福來博士の云はれる如く、全く無意識になることがあるならば、そは決して『岡田式静坐法』ではなく、何か全く別の物であると云はねばならない。岡田式静坐法では、静坐中と雖も、我等は徹頭徹尾有意識であつて、決して無意識ではない。

 そして、この静座中の「動揺」は、「無意識ではないが、無意志である」ということを強調して、さらに次のように説明します。

 茲で私の先づ第一に極めて置きたいのは、此の動揺が、故意でなく自然であると云ふことである。自分が意志の力で、勝手に身體を動揺させるのではなく、意志に關係なくして、身體が自然に振動するので、これは静坐法實行者の大多数の等しく經験する所である。
 又斯く身體が振動して居る時に、静坐者自身は、自分の身體が振動して居ると云ふことを知つて居るか居ないかと云ふに、前にも一寸述べた様に、我等は決して無意識に振動して居るのではなく、振動して居ると云ふことをよく知つて居るのである。自分が振動して居ることを知つて居るのみならず、隣に坐って居る人が振動して居ると云ふことも分つて居る。たとへば岡田先生が『今から始めます』と云はれて静坐を始め、三十分なり一時間の後に、『ソロソロ目を開けて』と云はれる時に、一同が目を開けて静坐を止めると云ふ一事から考へて見ても、岡田式に於ける身體の動揺は無意ではあるが、無意では無いと云ふことが分らう。此の無意(Unconscious)と無意(Involuntary)とは、必ず明白に區別せねばならない。

 つまり、静座中にピョンピョン飛び廻ったり、お腹を叩いたり、叫び声や唸り声を上げたり、人々がいくら奇妙な動きをしていようとも、それは通常の「催眠」下の現象とは異なって、あくまで自分で「意識している」状態だというのです。一方で、その際の身体の動きは、本人にとって「故意の」ものではなくて、「自然な」「無意志の」ものである、というのです。

 となると、これは果たしてどういう現象なのでしょうか。この「動揺」を心理学的あるいは医学的に位置づけてみると、これは19世紀末にピエール・ジャネが著書『心理学的自動症』(1889)の中で定式化したところの、「部分自動症」というものに、該当すると思われます。
 すなわち、この「部分自動症」においては、確かに本人に「意識」はあって、他人と会話したりすることもできるのですが、身体はその「意志」とは別に、何か「勝手に動く」ような現象を呈するのです。その例としては、「自動書記」という現象が有名ですが、「コックリさん」という遊びで現れる動きも、それに該当します。

 そうであれば、これはやはり広い意味での催眠現象の一種だということになります。ただその際には、通常の催眠状態のように外界の刺激に反応しないような「無意識」には陥らないものの、やはり意識の覚醒水準は多少なりとも低下して、随意的な身体の統御能力が、若干減弱していることになります。
 「岡田式静座法」では、静座の最中は目を閉じて下腹部の「丹田」に力を集中しつづけるという方法をとりますから、これをしばらく続けるうちに、意識は保ちながらも軽度の自己催眠状態に入り、身体が意志から離れて「動揺」を始めるものと思われます。

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◇          ◇

 さて、次に私として興味があるのは、賢治が「四十分にて全身の筋肉の自動的活動を来し…」という状態になったのは、岡田式静座法を行っていた他の一般の人々に比べて、早い方なのかどうなのか、ということです。

荒井倉三郎『實験 岡田式静坐法』 荒井倉三郎という医学士が1917年(大正6年)に著わした『實験 岡田式静坐法』には、静座に伴って起こる身体の動揺について、次にように記されています。

 元來、身體の動揺は静坐の目的ではない。静坐中人によつて自然的に伴生する現象である。故に、動揺が起つても、喜嬉するにも當らなければ、又た動揺が起らないからいつて、必ずしも心配する必要もない。動揺の起る起らぬは全然意に介しないが可い。
 現に親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば、既に三年餘も熱心に行つて居ても些しも起らない人もある。故を以て早く動揺の起つた人は早く堂奥に入り、數年後の今日も未だ動揺の起らない人は未だ静坐の堂奥に入つて居ないのかといふと、必ずしも然うではない。二三日にして動揺の現象があつても、未だ堂に入つて居ないものもあれば、三年五年經つても動揺しなくても妙境に達して居るものもある。

 すなわち、「親しく岡田氏の指導を受けて、熱心に静坐を行つて居る人々の中にも、身體動揺の現象は、二三日にして起つた人もあれば…」ということで、ここでは「動揺」が早く起こる例として、「二三日」という所要期間が挙げられているわけです。
 これはもちろん、動揺を起こすまでの「最も早い記録」というわけではないでしょうが、こういう箇所で例として挙げられているからには、「二三日」で動揺が起こるというのは、一般的には「早い方」だと考えてよいでしょう。
 すると、賢治が指導を受けたその初日に、開始わずか「四十分」で、「全身の筋肉の自動的活動」に入ったというのは、これは「かなり早い方」なのではないでしょうか。

 一般に、ある人がどのくらい催眠術にかかりやすいかという程度のことを、「催眠感受性 hypnotizability」と呼びます。
 この言葉を用いて上記を言いかえると、賢治が静座法を始めると一般人よりもかなり早くに軽催眠状態としての「身体動揺」に入ったという事実が示唆するのは、「賢治は普通よりもかなり催眠感受性が高い人だった」ということになります。
 もちろん、妹のトシも「見るまに催眠状態になった」と清六氏は記していますので、やはり催眠感受性は高かったということになります。一般に男性よりも女性の方が催眠感受性は高いものであり、また兄妹ですから、生得的な素質も似ていたのでしょう。

 ということで、今回長々と静座法などというものについて調べてきた目的は、結局このことを確認したかったのです。
 すなわち、「宮澤賢治の催眠感受性の高さ」です。

◇          ◇

 さて私は、宮澤賢治の作品のみならず、このちょっと変わった人の「人となり」にも興味がありますので、彼の作品を読んだり、その伝記的なエピソードを調べたりして、彼がどんな性格の人だったのか、どんな「心性」を持った人だったのかと、いろいろと間接的に推測してみたりします。
 現代ならば、さまざまな「心理テスト」と呼ばれるものがあって、これもまた間接的な手段ではありますが、書いたものから想像するのとはまた別の角度から、その人の心理的な特徴について、多少は客観的な傾向を抽出できる可能性もあります。
 しかしもちろん、すでに亡くなってしまった人に対しては、「心理テスト」を施行することはできません。

 そのような制約の中で、ここで得られた「催眠感受性が高い」という所見は、その人の心理的傾向に関して、それなりにまとまった情報を、私たちに与えてくれます。

 まずこれが示唆するのは、その人が催眠という特殊な方法のみならず、さまざまな周囲全般からの刺激に対して、人一倍強い感受性を持ち、それに影響されやすい傾向があるのではないか、ということです。
 賢治という人が、自分の周囲の世界から、視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚的にも、あるいは皮膚感覚的にも、様々な事柄を敏感に感じとって、それに触発されてまた多彩なイメージを紡ぎ出したということは、この傾向の一つの表れと考えることができます。童話や詩に表現された、あの絢爛たる世界です。

 また「催眠感受性の高さ」は、周りの人の感情状態に対して、より共感しやすく、共鳴・共振しやすいという傾向とも関連しています。
 賢治が子供の頃から、周囲の人の痛みを自分の痛み以上に鋭く感じてしまい、たとえば怪我した子の指を口に入れて血を吸ってやったとか、学校で罰として水の入った椀を持って立たされている子に同情して水を飲んでしまったとかいうようなエピソードにも、それは表れているように思います。大人になってからも、自分を犠牲にしてまで他人の幸せのために尽くそうとするところなどもそうです。

 また、ふと何事かに心を奪われてしまって、周囲の状況も忘れて「心ここにあらず」という状態になることを、「没入 absorption」と言いますが、催眠感受性の高い人は、この「没入」状態になりやすい傾向もあります。
 多くの人が回想しているように、賢治は何かに感動すると、目の前にいる人のことも忘れて「ホッホー!」などと叫んで走り出すということがしばしばあったということですが、これも一つの「没入」状態でしょう。これ以外にも、「心ここにあらず」という様子になることは、よくあったようです。

 事あるごとに、自分の中でどんどん空想を膨らませていって、気がつくとお話の世界に浸りきっている、というような状態になりやすい人のことを、「空想傾性 fantasy proneness」が高い、と言いますが、催眠感受性はこの空想傾性の高さとも、相関していると言われています。
 賢治の作品世界の、あのファンタジーの豊かさを思うと、彼は人一倍「空想傾性」が高かったのではないか、という気もします。

 さらに、賢治の作品とりわけ詩を読んでいると、彼は時に本当に「幻覚」を体験していたのではないかと思わせる箇所が、しばしばります。賢治の作品に出てくる幻覚的描写は、たいてい疲れた時やぼーっとしている時など少し覚醒水準が下がっている状態で現れ、自分に呼びかけられたり自分もそれに答えて会話をするような形をとります。そして、賢治自身には最初から、それが現実の知覚ではなくて幻覚であることがわかってします。
 人間が体験する「幻覚」にもいろいろな種類があるのですが、今挙げたような特徴は、「解離性幻覚」と呼ばれているタイプに合致します。
 そして催眠感受性は、この「解離性幻覚」を起こす心理機制としての「解離」という現象とも、関連しているという説があります。そうであればこれは、賢治が実生活において解離性幻覚を体験をしやすかったということと、関連づけることができるでしょう。


 とまあ、このようにいろいろ推測を重ねたからと言って、何がどうなるわけでもないのですが、宮澤賢治という「変わった人」の心性を、少しでも解き明かせないかと思い、彼にはこの世界がいったいどんな風に見えていたのだろうと思い、私としてはあれこれ考えてみている次第です。

カツコウドリ、トホルベカラズ

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 1月1日の「(大)正月」に対して、1月15日を「小正月」と言います。
 古代の日本では、満月が月の初めとされていたそうですが、中国から太陰太陽暦が導入されるとともに新月が月初とされて、「正月」も半月早くなりました。
 これに伴い、歳神や祖霊を迎えるなどの公式の行事は、新たな1日の大正月に行われるようになりましたが、元服の儀式や様々な農耕儀礼など、どちらかというと私的な行事は、古式に則ってそのまま15日の満月の日に残されたということです。
 もとは一つの正月が、二つに分かれたわけですね。

 さらに平成に入って、小正月に由来していた「成人の日」が、「ハッピーマンデー」なる制度の導入により日付が不定となったことを受けて、小正月行事はさらなる分散を余儀なくされます。
 すなわち、1月の第二月曜となった新たな「成人の日」に行われるもの、そのまま1月15日に行われるもの、15日の次の日曜に行われるものなど、地域によって、また行事によって、さらに煩瑣に分かれる事態になったのです。

 うちの近所の公園では、今日19日の午前中に、「どんど焼き」というのをやっていました。地域の消防団の人が火を起こして、そこに町の人々がお正月の注連飾りや門松の青竹や、書き初めをした半紙などを持ち寄り、積み重ねて燃やすのです。「どんど焼き」とか「とんど」とか呼ばれるこの小正月の行事は、それまで来訪していた「歳神様」あるいは「祖霊」を、祝祭期間の終了とともに火によって送り返すという趣旨なのだそうで、また「左義長」と呼ぶ地域も多いでしょう。

どんど焼き2014

 ビルの谷間にあるような小さな公園ですから、火も上写真のようにほんとにかわいいものですが、近所の子供たちはけっこう集まって、無料で配られるぜんざいを食べていました。このぜんざいも、「小正月には小豆粥を食べる」という風習に由来するものなのでしょう。

◇          ◇

 一方、村の境や神社などに「勧請縄」という長い縄を張って、ケガレや悪霊の侵入を防ぐという風習がありますが、この縄を綯って吊すという「勧請吊り」の儀式が行われるのも、多くは小正月です。
 最近私は、この勧請縄に「トリクグラズ」という奇妙な名前のまじない物を取り付ける風習があることを知り、この怪しげな名前には、かなり興味をそそられました。これは近畿地方を中心に、とくに滋賀県の琵琶湖東岸地域にはたくさん分布しているということでしたので、今日はちょっと電車に乗って、東近江市まで見に行ってきました。

 京都も昨夜は雪が降って、朝はうっすらと残っていたのですが、電車が滋賀県に入ると、一面の雪景色でした。

近江鉄道の車窓

 近江八幡駅でJR東海道線から近江鉄道に乗り換え、さらに八日市で乗り換えて「長谷野」という駅で降り、雪の中を少し歩くと、「長緒神社」という神社に着きました。
 この神社の鳥居の脇に、青竹が渡されて、その下に真新しい太い縄が張られていました。これが、「勧請縄」です。この神社では、先週この勧請吊りが行われたようです。

勧請縄

 そして、この縄の中央部に、杉の葉で作られたクリスマスの「リース」のような大きな輪が吊り下げられていますが、これこそが、「トリクグラズ」というものです。
 下に、その拡大した写真を載せます。

トリクグラズ

 それにしてもまあこの「トリクグラズ」は、クリスマス飾りに似ていますね。冬でも青い葉であることや、形が円であることには、洋の東西を問わず聖なる意味があるために、同じようなものになったのでしょうか。滋賀県でも他の地区のトリクグラズには、円の中に十字の印とか、陰陽師の紋のような五芒星や、ダビデの星のような六芒星もあるそうなのですが、残念ながら思わぬ雪のために、他を見てまわることはできませんでした。
 上の写真で、トリクグラズの上に付けられたお札には、ここは神社なのに「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 廣済衆厄難」という「無量寿経」の一節が書かれていて、神仏習合の様子が表れています。

 さて、「トリクグラズ」とは、漢字で書けば「鳥潜らず」ということなのでしょう。ここに張り渡された「結界」を越えて鳥が侵入しないように防ぐ、という意味合いなのかと思われますが、「大きな円形の作り物を吊るす」というところは、現代も鳥除けのためにぶら下げる大目玉のような風船に、どこか通ずるところもありますね(笑)。

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 しかし、なぜほとんど鳥など飛んでいない冬のさなかである小正月に、鳥除けのまじない物を吊るすのかというのが不思議なところで、これはやはり小正月に行われる「鳥追い」という行事と、内容的には関連したものと思われます。
 鳥追いとは、田畑に害をなす鳥を追い払うことによって豊作を祈願する、農耕儀礼の一種です。鳥のいない小正月にわざわざ行うのは、一年のうちで重要な日に儀式を行っておけば、一年中にわたってその効果があるという考えに基づくもので、これを「予祝儀礼」と言います。あらかじめ済ませておけば、忙しい収穫期に害鳥対策に追われる心配もないというわけですね。
 ただし現実の鳥を追うわけではないので、次第に形式化・遊戯化していき、一連の儀式はおもに子供たちの役割となりました。東北地方では、子供たちが小屋がけをして、各戸からもらい集めた正月の注連飾りや松飾りで屋根を葺き、正月14日または15日の夜に小屋に火をつけて燃やし、大声で「鳥追い歌」を唄うのだということです。

◇          ◇

 ところで、神聖な「結界」に、「トリクグラズ」というまじないを懸けるということから、私がどうしても連想するのは、「グスコーブドリの伝記」の冒頭部です。

 お母さんが、家の前の小さな畑に麦を播いてゐるときは、二人はみちにむしろをしいて座つて、ブリキ缶で花を煮たりしました。するとこんどは、もういろいろの鳥が、二人のぱさぱさした頭の上をまるで挨拶するやうに啼きながらざあざあざあざあ通りすぎるのでした。
 ブドリが学校へ行くやうになりますと、森はひるの間大へんさびしくなりました。そのかはりひるすぎには、ブドリはネリといつしよに、森ぢゆうの樹の幹に、赤い粘土や消し炭で、樹の名を書いてあるいたり、高く歌つたりしました。
 ホツプの蔓が、両方からのびて、門のやうになつてゐる白樺の樹には、
「カツコウドリ、トホルベカラズ」と書いたりもしました。

 まさに「トリクグラズ」のように、ブドリとネリは「カツコウドリ、トホルベカラズ」という結界を張りわたしたのです。
 しかしここで、なぜ「いろいろの鳥」がブドリとネリに挨拶をしていた中で、特に「カッコウドリ」だけが、排斥されなければならなかっったのでしょうか。その理由は、カッコウがかの悪名高い「托卵」という習性を持っているからかもしれません。
 カッコウの母鳥は、モズやホオジロなど他の鳥の巣に勝手に卵を産みつけて、自分の卵をその親鳥に暖めさせるという行動をとります。そしてやがて孵化したカッコウのヒナは、巣の持ち主が産んだ卵を巣の外に放り出してしまい、自分だけが居候先の親鳥から餌をもらって、成長するのです。
 すなわち、カッコウという鳥は、本来ならば他の鳥が持てたはずのスイート・ホームを、無情にも破壊してしまうという性質を持っているのです。イーハトーブの森の奥で、親子水入らずの幸せな暮らしをしていた幼い兄妹としては、「家族」を引き裂くようなこんな不吉な鳥は、自分たちの世界に入れてはならなかったのではないでしょうか。

 つまり、ブドリとネリがホップの蔓と白樺の樹に張りわたした「結界」は、遊戯化された形をとってはいますが、自分たちの家族を守護するための呪禁だった可能性があります。これによって二人は、父母とともにまだ何の悲しみも知らないで暮らしていた、自分たちの輝かしい無垢の幼年時代を、何とかして守ろうとしたのではないでしょうか。
 しかし、やがてイーハトーブを襲った災厄によって、この「結界」は破られてしまいます。父と母は去り、ネリは誘拐され、残されたブドリも森を後にしたのでした。

◇          ◇

 最後に、幼い賢治とトシの有名な写真を貼っておきます。この一枚は、兄妹二人の祝福された幼年時代が、永遠に封入されたものです。
 撮影したのは賢治の叔父の治三郎でしたが、彼はこの翌年に27歳の若さで亡くなってしまいました。彼の死は、父政次郎をより深く仏教信仰へと駆り立てることになりますが、その意味でもこの写真は、宮澤家の誰もがまだ悲しみを知らなかった時代の、記念碑なのです。
 ちなみに、トシの後ろに写っているお飾りは「繭玉」と言って、柳やミズキなどの枝に、蚕の繭の形にした餅や団子を付けて、その年の繭の豊収を祈願するという、小正月の行事です。これも「予祝儀礼」の一種ですね。
 後ろの繭玉の存在によって、この写真には幸せな二人と、小正月の祝祭の雰囲気とが、ともにしっかりと刻印されることとなったのです。
 

賢治とトシ(明治35年小正月)
(『新校本全集』第16巻(下)より
 

「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」案内

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 3年前の東日本大震災以来、宮澤賢治をテーマとして京都で行ってきたチャリティ企画「イーハトーブ・プロジェクトin京都」の第6回を、来たる3月2日(日)に、京都市左京区にある法然院本堂で開催いたします。
 今回は、第2回でも「光の素足」を演じていただいた能楽師の中所宜夫さんが、福島の原発事故を潜在的テーマとして書き下ろされた新作能「中尊」を、<能楽らいぶ>という形式で演じていただきます。

第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都
  中所宜夫「中尊」(能楽らいぶ)
    シテ: 中所宜夫
    ワキ: 安田登

日時: 2014年3月2日(日)午後6時開演(午後5時半開場)
場所: 法然院 本堂(京都市左京区鹿ヶ谷)
参加費: 2000円(必要経費を除き被災地の活動に寄付します)

 下記チラシは、クリックするとPDFで拡大表示されます。

「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」チラシ

 これまでの企画とは違って、今回は賢治の作品は採り上げていないのですが、その内容には、賢治の精神が息づいています。
 この「中尊」という能のクライマックスの部分では、石牟礼道子氏の詩「花を奉る」が謡い舞われます。ここにおいて中所宜夫さんは、「賢治の精神を受け継ぐ石牟礼道子」という視点も持ちながら、"東北の今"を描こうとされました。また、ワキ(旅の詩人)の語りの中には、「いいはとおぶとも呼ばれし日高見の地…」という言葉さえ登場します。
 このような能「中尊」は、「イーハトーブ・プロジェクト」という私たちの催しの趣旨にもぴったりとかなうものでしたので、是非ともと中所宜夫さんにお願いした結果、チャリティ企画へのご協力を快諾いただいたのです。

 この能は、遠く阿弖流為(アテルイ)の時代から、奥州藤原氏の滅亡を経てはるか現代まで、東北がずっと背負ってきた重い歴史を、私たちに垣間見せてくれます。そして、彼の地において「救い」を模索した人々の系譜に、宮澤賢治その人も連なっていることを、あらためて浮かび上がらせてくれるものです。

 当日は、まず能が始まる前に、私どもの第3回公演で賢治作品の「かたり」をしていただいた竹崎利信さんに、石牟礼道子の詩「花を奉る」を朗読していただいて、導入とします。
 それから、「中尊」の<能楽らいぶ>が始まります。シテ(=福島で原発事故に遭い幼子とともに岩手へ逃げてきた女性)を中所宜夫さんが、ワキ(=福島浜通りから来てその女性と出会う旅の詩人)を安田登さんが、それぞれ務められます。

 終了後には、中所さんと私とで、簡単な対談をさせていただきます。中所さんがこの能に込められた思いや、石牟礼道子や宮澤賢治との関わりについても、お聞きしたいと思います。

 思えば、南北朝の戦乱が続いた観阿弥・世阿弥の時代から受け継がれてきた能という芸能は、亡くなった人々、失われたものへの「鎮魂」という役割を、色濃く帯びていました。現代の能「中尊」は、そのような伝統の力を受け継ぎ、今なお福島の現実によって胸を突き刺されたままの私たちに、何かを示唆してくれるのではないかと思います。

 あとそれから、この3月2日の能公演には、もう一つ素晴らしい企画も連動しているのです。
 当日は法然院において、上のチラシの原画も描いて下さった画家・鈴木広美(ガハク)さんによる「蓮の花」の連作の展示も行われるのです!
 上のチラシ原画は、縦1mほどの作品だということですが、これよりさらに大きな作品も含め、当日は数枚の油絵や版画が、法然院の古式ゆかしい空間に並べられます。そして、輝かしくも神秘的な「ガハク・ワールド」が出現する予定なのです。私も今からワクワクしているところですが、皆様もどうかご期待下さい。
 ということで、遠く埼玉から私どもの催しのために、素晴らしい作品群をお寄せ下さるガハクこと鈴木広美さんには、この場を借りてあらためて厚く御礼申し上げます。

 会場となる法然院本堂は、ふだんは一般公開されておらず、なかなか中を拝見することはできないのですが、そういう意味でも、今回は貴重な機会となります。
 この3月2日の法然院公演にご来場ご希望の方は、075-256-3759(アートステージ567: 12時ー18時, 月曜休)にお電話いただくか、または当サイト管理人あてメールにお名前と人数を明記して、あらかじめご予約下さい。

 能「中尊」の内容については、近日中にもう少し詳しくご紹介をさせていただこうと思っています。

能『中尊』について

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 来たる3月2日に法然院で演じられる新作能「中尊」が、福島原発事故を潜在的なテーマとしたものであることについては、前回も触れました。

 この能の作者である中所宜夫さんは、3年前の震災と原発事故を受けて、何とかして能という営みを通して、「原発の鎮魂」を行えないかという思いを、ずっと抱いてこられたのだそうです。
 「原発の鎮魂」とは、何ともまた日常の論理では理解しにくい言葉ですが、こういうことを言い出したのはレヴィナス研究者の内田樹氏で、その辺の経緯は、3年前に出版された『原発と祈り』という本になっています。(その一端は、内田氏のブログの「原発供養」という記事でも読むことができます。)

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 この本は、内田氏ら3人の論者が、原発事故が起こってまだ3週間という時点で行った鼎談を収録しています。3年が経った現在から見ると、福島原発の行く末に対する当時の切迫感は半端なものではないですし、ちょっと言いすぎかなと思うところもなくはないのですが、しかしここで3人からにじみ出ている独特の高揚感、危機感、真摯さは、私たち日本中の皆が、2011年の3月から4月にかけては、共有していたものです。
 3年後に読んでみると、私たちはある意味で少し冷静になったとも言えますし、原発の稼働や放射能に対するあの頃の感性を、明らかに摩耗させて鈍感になっていることも、また自らに思い知らせてくれます。
 ここで、内田氏らは「原発供養」とか「原発の鎮魂」というコンセプトを呈示し、映画の『ゴジラ』ではゴジラの鎮魂のための歌を女子高生が歌う場面が出てくるとか、ウルトラマンというのはなぜか「仏像の顔」をしていて、怪獣の「荒ぶる魂」を「成仏」させているのだ、とかいうネタのような(?)話が展開されています。

 その内容については本そのものを参照していただくとして、いずれにせよ中所宜夫さんは、この「原発の鎮魂」というコンセプトを受け継いで、それが能という形に具現化できないかということを、模索して行かれたのです。
 その「具現化」のプロセスについては、中所さんご自身が、「『花を奉る』について」(能楽雑記帳)という文章に書いておられて、Web上で読むことができます。

 中所さんの「『花を奉る』について」にも記されているとおり、この『中尊』という能作品において、全体の「核」となっているのは、最後にシテによって舞われる石牟礼道子氏の詩、「花を奉る」です。
 この詩は、1984年に石牟礼氏が熊本県の無量山真宗寺における遠忌供養のために寄せた「花を奉るの辞」に由来しています。そして東日本大震災の翌月、作者自身がこれを改作して「花を奉る」とし、「大震災の翌月に」と末尾に記しました。

 下の『なみだふるはな』という本は、石牟礼道子氏と写真家の藤原新也氏の対談が収録されているものです。この本の冒頭に、石牟礼氏は改作した「花を奉る」を掲げ、藤原氏は水俣と福島で撮影してきた花の写真を掲げています。

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 対談の中で石牟礼氏が語っているように、水俣と福島という二つの究極の場所において、結局は「国の嘘」が露呈しました。
 この「嘘」の背景にあるのは、潜在的危険性を帯びた化学工場や原子力発電所を、都市から離れた辺境に建設して、その地に住む人々の生命や生活を奪った、国そのものの差別的な構造です。この意味で、水俣と福島は同型なのです。
 中所さんの能『中尊』においても、シテの女性は「新潟阿賀野に生まれ」、「親を水銀の毒で失い」という設定になっているところに、この同型性が象徴されています。

 一読いただけばわかるとおり、「花を奉る」という詩の言葉は、もの凄く重たく、悲観的で虚無的です。それはまさに、原発事故後3年が経とうとするのに先の灯りも見えない、今の福島の状況に釣り合っています。
 しかし同時にこの詩には、そのような底知れない暗黒をも照らすような、強い希望も秘められています。

 中所さんは石牟礼道子氏のことを、「現代において賢治の精神を受け継ぐ人」と表現しておられますが、その言葉のしなやかさや奥深さにおいて、この二人は通底する詩人だと思います。
 ちなみに、この「花を奉る」のテクストが、まるで誂えたように能の舞にぴったりと当てはまっていった様子は、中所さんの「『花を奉る』について」に感動的に記されていますので、ぜひともご参照下さい。

 一方、中所さんのご友人でもある詩人の和合亮一氏は、震災後まもない福島から、ツイッターを通して詩の連続投稿を開始されました。『詩の礫』と題されたその営みにおいては、「花を奉る」とはまた違った具象的な迫真性を持った言葉が、リアルタイムに紡ぎ出されました。

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 私も震災後の一時期、暗い寝床で息をひそめるようにして、スマートフォンの画面でその投稿を見守っていたものですが、それはたとえば次のような詩句から成っていました。(『詩の礫』より抜粋)

放射能が降っています。静かな夜です。
                         2011年3月16日 4:30

ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか。
                         2011年3月16日 4:31

この震災は何を私たちに教えたいのか。教えたいものなぞ無いのなら、なおさら何を信じれば良いのか。
                         2011年3月16日 4:34

屋外から戻ったら、髪と手と顔を洗いなさいと教えられました。私たちには、それを洗う水など無いのです。
                         2011年3月16日 4:37

明けない夜は無い。
                         2011年3月17日 0:24

あなたはどこに居ますか。私は閉じ込められた部屋で一人で、言葉の前に座っている。あなたの閉じ込められた心と一緒に。
                         2011年3月18日14:11

南相馬市の夏が好きだった。真夏に交わした約束は、いつまでも終わらないと思っていた。原町の野馬の誇らしさを知っていますか?
                         2011年3月18日14:14

福島は私たちです。私たちは福島です。避難するみなさん、身を切る辛さで故郷を離れていくみなさん。必ず戻ってきて下さい。福島を失っちゃいけない。東北を失っちゃいけない。夜の深さに、闇の広さに、未明の冷たさに耐えていること。私は一生忘れません。明けない夜は無い。
                         2011年3月20日 0:20

しーっ、余震だ。何億もの馬が怒りながら、地の下を駆け抜けていく。
                         2011年3月20日22:01

 ここに和合氏の言葉をいくつもわざわざ引用させていただいた理由は、能『中尊』でワキとして登場する「福島浜通りから来た旅の詩人」のモデルは、実はこの和合亮一氏なのだと、中所さんからお聞きしたからです。作中の「旅の詩人」の孤独は、ひょっとしたらこのような陰影を帯びているのかもしれません…。
 さて、中所さんはこの和合亮一氏と、福島県相馬市および岩手県北上市において、能楽らいぶ+詩の朗読というコラボレーション公演を行い、ここで「花を奉る」の謡いと舞いを、和合氏の詩と組み合わせるという試みがなされました。この時点では、まだ全体は能の形をとっていませんでしたが、さらに中所さんが他のアーティストとも共演を重ねるうちに、それは自ずと、徐々に全貌を現わしてきたのです。

 この辺の作品誕生プロセスについて、中所さんから話をお聴きしていると、この作品は中所さんという一人の人が「創作」したというよりも、何かもともと存在していたものが、中所さんという「器」を借りて、自分の方から姿を現わしてきたような気持ちになってくるのです。

 思えば「能」という芸能は、観阿弥・世阿弥によって完成されて以来、様々な事情で亡くなった人々の魂を鎮めるという役割を、色濃く担ってきました。
 たとえば、世阿弥による『敦盛』においては、一ノ谷の合戦においてまだうら若い平敦盛の首を刎ねた熊谷直実が、心痛に堪えかねて出家して蓮生と名乗り、敦盛の菩提を弔うために、須磨を訪れます。そこで笛の音とともに蓮生の前に現れた草刈男の一人が、実は敦盛の化身だったのですが、後場でその敦盛の霊は、蓮生の前で平家の栄枯盛衰を語り舞を舞った後、いったんは自分の敵である蓮生を討とうとします。
 しかし結局は、「終には共に。生るべき同じ蓮の蓮生法師」と悟って、蓮生に自らの回向を頼んで、去って行くのです。

 この一連の物語によって、まずは無念の思いを抱いたまま死んだ敦盛の魂が、仇敵を許す境地に至ることによって、浄化されます。またそれとともに、年若い少年を殺してしまった罪責感を抱える蓮生の苦しみが、相手から許されることによって、浄化されます。
 これに加えて、当時この能の観客であった南北朝時代の武士たち――彼らもまた各々が戦いをくぐり抜け、他人を殺したり自分が殺されそうになったりした――にとっては、舞台の上で繰り広げられる鎮魂のドラマを、共に「体験」することによって、各々が戦争によるPTSDとして心に抱えている傷が、浄化されることになるでしょう。
 すなわち、能が演じられる時、そこではシテにとって、ワキにとって、そして観客にとって、という三つのレベルにおいて、魂の浄化が行われるという構造になっているのではないかと、私は思うのです。

 このような重層構造は、『中尊』にも織り込まれています。
 シテの「女性」は、親を水銀の毒で亡くし、第二の故郷となった福島でも被災し、その後また息子に去られます。差別や疎外によって傷ついた女性は、詩人の前で東北の地霊と一体化し、祈りの徴に古代の蓮を奉られることによって、何らかの変容を遂げます。
 ワキの「旅の詩人」は、おそらくこの度の災厄の現状をつぶさに観察しながら、その有り様を詩として言葉に刻む旅をしています。この時期に詩人が一人、「福島浜通り」から、「いいはとおぶ日高見の国」へと抜けるという道行きをしている目的としては、それ以外に考えられません。
 このような役割を担う者は、惨状を目撃し感情移入すればするほど、自らの心をもストレスに曝すことになります(=代理受傷)。そのような詩人にとって、東北の地霊の供養を務めることは、自らが被災地で共に震えつつ抱えこんだ苦しみを、癒してくれることにもなるでしょう。

 このようにして、シテもワキも、「花を奉る」という行為によって、それぞれに浄化されるのです。
 さらに上にも触れたように、この仕儀は、女性に憑依した東北の「地霊」に対して捧げられるという形をとっています。そこでは、古代蝦夷のアテルイや奥州藤原氏に象徴される東北の豊饒さと、中央政府によるその収奪という構造が浮き彫りにされ、そしてこのたび東北を襲った震災や原発事故、そしてその後に再び露呈した中央政府との歪んだ関係も、自ずとそこに重なり合います。
 この歴史の同型性を貫通するのが、奥州藤原氏滅亡の時に藤原泰衡の首桶の中に入れられた蓮の花から、800年ぶりに現代に甦って花を咲かせた、「中尊寺蓮」です。(「中尊寺蓮」開花の経緯に関しては、世界遺産平泉の「中尊寺ハス」のページを参照)

 詩人によって地霊の前に「中尊寺蓮」が捧げられることによって、傷ついた「東北」の回復には、一点の希望が灯されます。
 しかし、この希望が果たして日本という国全体の救いになりうるかどうかは、観客である私たちの行動の如何に懸っていることでしょう。
 水俣と福島に象徴されるこの国の構造を、今なお支えているのは、私たち自身です。

 最後に、私の勝手な要約による能『中尊』のあらすじと、石牟礼道子「花を奉る」のテキストを、掲載しておきます。

※ 

能『中尊』(あらすじ)

 福島浜通りからやって来た旅の詩人が、日高見の国で一人の女性に出会った。
 この女性は新潟阿賀野に生まれ、親を水銀の毒で亡くしたが、縁あって福島飯坂に嫁ぎ、子を成したという。しかし後に、親の病気を夫に告げていなかったことを責められ、その子と一緒に家を出て、文知摺観音のもとで二人暮らしていた。そこにまたこの度の災厄があり、彼女は我が子を守りたい一心で、謗られながらも幼い手を引いて、日高見へと逃げた。

 それから三年目の春を迎え、いつしか大人びた子は、母に暇を乞うて言った。福島に戻って父とともに、生まれ故郷のために働きたい、と。母は、我が子の成長を喜びつつ、かつ涙をこらえつつ、寂しい笑顔で見送った。
 それ以来、日高見に一人残された女性は、立ち枯れの松のように、孤独の日々を送っているという。

 そう言うと女性は、中尊寺蓮を見るようにと、詩人を池の端に迎え入れた。美しい蓮に感嘆した詩人がその由来を尋ねると、女性はまるで何者かに憑かれたかのように、蝦夷のアテルイから平泉の藤原氏に至る東北の歴史を、滔々と語った。そしてこの蓮こそ、奥州藤原四代泰衡の首桶に収められていた蓮の種から、八百年の時を経て、今の世に甦り咲いた花だという。
 いつしか女性には、この地の霊が憑依していたのである。驚く詩人に対して、今やその霊は本性を明かし、自らに蓮の花を捧げるよう促した。詩人がその一本を折って手渡すと、女性は白い衣を纏った神々しい姿となって舞いながら、一篇の祈りの詩を、詩人に謡い聞かせた。

春風萌(きざ)すといえども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累なりて 三界いわんかたなく昏し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世(とこよ)なる仄明りを 花その懐に抱けり
常世の仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして
世々の悲願をあらわせり
かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花となし み灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いづれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず
現世はいよいよ 地獄とやいはん
虚無とやいはん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す

(石牟礼道子「花を奉る」)

ガハク『800年の夢』
ガハク『800年の夢』


よるのしづまの寒天凝膠(アガアゼル)

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 もう1週間後に能『中尊』の公演を控えているのですが、今さらながら泥縄式に能のお勉強などをしようと、『能はこんなに面白い!』(小学館)という本を読んでいました。

能はこんなに面白い! 能はこんなに面白い!
内田 樹 観世 清和

小学館 2013-09-13
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 著者の一人、内田樹さんは本職はレヴィナスの研究を専門とする哲学者ですが、ブログ「内田樹の研究室」ではいつも社会に対して鋭い識見を示しておられますし、合気道、居合道などの修行をする武道家でもあります。中所宜夫さんが能『中尊』を創作する源泉の一つとなった「原発の鎮魂」という構想は、内田樹さんの考えに由来していたということは、前回述べました。
 この内田さんが、関西に赴任してきたことをきっかけに能を習うようになったという縁で、上の対談本は生まれています。

 ところでこの本の中の、次の箇所に私はとても興味を惹かれました。内田さんが能を習い始めて、しばらく経った頃のことです。

 社中の発表会のために舞囃子を稽古していた時、地謡と囃子方の玄人たちを入れた「申し合わせ」を能楽堂で行った。何の曲だったかもう覚えていない。『融(とおる)』だったか『養老(ようろう)』だったか。とにかくそのときに、私が目付柱に向かってすり足で進んでいると、左後ろに位置するシテ方たちから舞台上の空気が震えるような地謡が届いた。その地謡は明らかに空間を歪ませていた。舞台上の空間密度が均質ではなくなり、濃淡の違いが生まれた。私自身は何もない能舞台の空間を、教えられた道順通りに歩んでいるのだが、音楽の介入によって空間が歪み、舞台の空気密度に濃淡の差が生じ、粘度の差が生じ、「通れる空間」と「通れない空間」の違いが生じる。立つべきときに、立つべき場所に立つことを能舞台という場そのものが要請している。
(中略)
 その頃、下掛宝生流のワキ方安田登さんとはじめてお会いした。気になっていたので、まずそのことを訊いた。「空間の密度が濃くなって、ゼリーの中を歩いているように感じられることってありませんか?」という私の話に安田さんはつよく反応して、ご流儀では「寒天の中で動く」という比喩を用いることがあると教えてくださった。空間には固有の粘度があり、それが舞のあるべきかたちを導くという私の直観はあながち妄想ではなかったようである。(p.116)

 ここに登場する安田登さんは、来週法然院の能『中尊』において、ワキ方を務めていただくことになっているというのも不思議なご縁ですが、それはともかく私が興味を惹かれたのは、宮澤賢治という人もいくつかの作品において、空気に密度の差が生じるとか、ゼリー状になっているとかいうことを書いているからです。

 たとえば下記は、「東岩手火山」(『春と修羅』)の終わり近くの一節です。

天の海とオーパルの雲
あたたかい空気は
ふつと撚(より)になつて飛ばされて来る
きつと屈折率も低く
濃い蔗糖溶液(しよたうやうえき)に
また水を加へたやうなのだらう

 ここで賢治は、岩手山頂の空気の密度が撚り糸のように不揃いになって流れているのを感じ、これを「濃い蔗糖溶液に水を加えた」という視覚的イメージで捉えています。水溶液に、陽炎のようにうるうると透明の模様が動いている様子ですね。

 次には、「車中」(『春と修羅 第二集』)の全文を載せてみます。

四一〇
  車中
               一九二五、二、一五、

ばしゃばしゃした狸の毛を耳にはめ
黒いしゃっぽもきちんとかぶり
まなこにうつろの影をうかべ
   ……肥った妻と雪の鳥……
凛として
ここらの水底の窓ぎわに腰かけてゐる
ひとりの鉄道工夫である
   ……風が水より稠密で
      水と氷は互に遷る
      稲沼原の二月ころ……
なめらかででこぼこの窓硝子は
しろく澱んだ雪ぞらと
ひょろ長い松とをうつす

 「風が水より稠密で」という部分に、空気の密度が水よりも大きく(濃く)なっているという事態が、表されています。

 次もこれと同じく、風が水よりも「濃い」ということを言っています。「〔水よりも濃いなだれの風や〕」(「春と修羅 第二集補遺」)の、冒頭部分です。

水よりも濃いなだれの風や
縦横な鳥のすだきのなかで
ここらはまるで妖精たちの棲家のやう
つめたい霧のジェリイもあれば
桃いろに飛ぶ雲もある

 そして、「青森挽歌」(『春と修羅』)の冒頭部分。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
   (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
りんごのなかをはしつてゐる
けれどもここはいつたいどこの停車場だ
枕木を焼いてこさえた柵が立ち
   (八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))
支手のあるいちれつの柱は
なつかしい陰影だけでできてゐる

 ここでは、夜行列車の窓を水族館に見立てたことをきっかけに、その列車が「寒天凝膠」のように粘性のある静かな夜の空間を、切り裂いて走って行くイメージが生まれています。
 (八月の よるのしづまの 寒天凝膠(アガアゼル))の一行は、これ自体が一つの俳句になっていますが、夏の夜の空気のあのねっとりとした質感を、見事に表現していますね。

 このように、賢治がいくつもの作品において、空気の質感の「稠密さ」や「粘性」を描写しているからには、彼もまた能楽師のように、そういう実感を持つことが現にあったのだろうと思います。
 そして、「空気」の存在をふだんは忘れている我々一般人とは違って、自分たちを包んでいる「媒質」の質感を感覚的に意識していたからこそ、人が生活しているこの地表のあたりのことを、「気圏の底」と表現していたのではないかとも思うのです。


 最後に宣伝ですが、3月2日(日)の法然院の能『中尊』は、まだ残席があります。 
 能に関心をお持ちの方、福島の現実に思いを寄せておられる方、ふだんは拝観できない法然院本堂を一度見てみたいという方、ぜひともお越し下さい。当サイト管理人あてメールで予約できます。

「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」終了

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 もう1週間たちましたが、去る3月2日(日)に、「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」(能楽らいぶ『中尊』)が、無事終了いたしました。ご出演、ご協力いただいた方々に、ここに厚く御礼を申し上げます。
 日曜の夜にもかかわらず、多くの方々にお越しいただくことができました。ご参集いただいた皆様にも、心より御礼申し上げます。今回も、参加費から経費を除いた全額は、被災地における復興支援活動に寄付させていただきます。

 さて、法然院というお寺を巡ると、本当にたくさんの花が供えられているのを目にします。

 ご本尊の阿弥陀如来坐像の前には、人間の臨終の際に阿弥陀如来とともに浄土から迎えに来るという「二十五菩薩」を表す二十五輪の生花が、「散華」として毎日供えられています。

法然院・阿弥陀如来坐像と散華

 上の写真で、床の上に幾何学的に配置されている藪椿の花が、それです。この椿以外にも、たくさんの花が生けられています。

 廊下から手水鉢を見ると、ここにも生花が毎日浮かべられています。

法然院の手水鉢

 花がこんなにたくさん供えられているお寺で、しかもそのご本尊の阿弥陀様の前で、「花を奉る」という祈りを中心とした能が舞われるというのですから、こんなにうってつけの舞台が、他にあるでしょうか。
 今回、この場所で『中尊』が演じられるためのお手伝いができたことは、私たちにとっても願ってもない光栄でした。

 公演は、「第3回イーハトーブ・プロジェクトin京都」で「なめとこ山の熊」などのかたりを聴かせて下さった竹崎利信さんによる、「花を奉る」の朗読で始まりました。
 ここでまず、石牟礼道子さんによる「花を奉る」の祈りが、皆の心の底にくっきりと楷書体で刻まれます。

竹崎利信・朗読「花を奉る」

 そして静かに続けて、能『中尊』が始まりました。

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

能『中尊』

かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆへにわれら この空しきを礼拝す
然して空しとは云はず

能『中尊』

 シテとワキが徐々に「薄墨にとけ込んでゆくように」(by @flaneur51)退場すると、あらかじめ出演者の要望によって拍手はご遠慮いただくように皆様にお願いしてあったので、暗い本堂は、しばらく深い沈黙に包まれました。

 重く美しい言葉の連なる石牟礼さんの「花を奉る」の中でも、上に引用した「かへりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)/かりそめの姿なれども おろそかならず・・・」という箇所は、本当に痛切に心に沁み入ります。

 「まなうらにあるものの御形」とは、今は亡き、大切な人々の面影ではありませんか。ここで私は、3年前の地震や津波で亡くなった人々のお顔を、それぞれの身内の方々が思い起こしておられる様子が浮かんでしまって、胸が締めつけられました。
 このような面影は、たとえそれがどんなに愛しいものであっても、仏教の正しい教えに従えば、「仮象」にすぎません。しかしまた一方、どんなに教えが尊くても、やはりそれは一人一人の生きている人間にとっては、「おろそかならず」なのです。
 だから人間は、「空し」とわかっていても、その「御形」をまなうらに浮かべて、礼拝します。
 そしてまた、理知の教えによって「空し」とわかっていても、あえて「空しとは云わず」と、石牟礼さんは静かに、はっきりと言うのです。

 「死」という現象にまつわるこの深い葛藤――死に対する理性的な認識と、人間的な感情との間の相克――は、宮澤賢治が「オホーツク挽歌」の旅において、妹トシの死をめぐって抱えていた苦悩に、ちょうどそのまま対応するものでしょう。
 その相克に、賢治と石牟礼さんがそれぞれ対峙した様子は、またかなり異なって感じられます。
 賢治は、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》(「青森挽歌」)と厳しく念じ、最終的には、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という心境へと、浄化されていきました。
 石牟礼さんは上に記したとおり、「ゆへにわれら この空しきを礼拝す/然して空しとは云はず」と、相克は相克のままに肯定しておられるようです。
 宗教的な意味合いはともかく、私個人にとっては、石牟礼さんのスタンスの方が「人間的」な感情を残してくれている分、わかりやすく感情移入しやすいものではあります。

 あらかじめ自分なりに謡本を熟読しておき、昨年9月の演能の一部を動画でも見て、そしてついにこの日、能『中尊』を直に拝見したわけですが、私にはその作品全体は、美しい一篇の詩のように感じられました。
 ・・・「悲しみ」があって、そこに再生の象徴となる「中尊寺蓮」があって、その「花」を、石牟礼道子さんの祈りとともに、「奉る」・・・。

 作中時間と同じ「3年目の春」を迎えようとしている私たちの心に、この作品は震災や原発事故のことを痛切に呼び覚ましましたが、上記のように研ぎ澄まされたシンプルなその「形」は、そのような具体的な文脈を超えて、「古典」のような美しさを静かに放っているように感じられたのです。

 一方、当日はこの「能楽らいぶ」と並行して、鈴木広美(ガハク)さんと恭子さんによる、「花を奉る」をテーマとした作品の展示が、本堂裏の「食堂(じきどう)」で行われました。お二人は、この催しのためにはるばる埼玉から作品を持って駆けつけて下さったのです。
 現在私の手元にはこの展示の様子を写した写真がなく、目に見える形でご紹介できないのがとても残念なのですが、「文殊菩薩像」が祀られている対面には、花の器を持つ「シバの女王」の彫刻が置かれ、イーゼルには7枚の油絵が、机の上には9枚の銅版画が飾られ、大広間全体は、精霊たちが踊るような空間になりました。
 この美術展の画像が入手できましたら、またあらためてご紹介させていただきたいと思っています。
 なお、展示していただいた作品の一部は、ガハクさんご自身のブログ記事「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」にて、ご紹介されています。

 今回も、本当にたくさんの方々のお力添えのおかげで、素晴らしい催しを行うことができました。あらためて、皆様に御礼申し上げます。
 当日いただいた参加費と募金、それからガハクさんたちからは絵の売り上げの20%をご寄付いただきましたので、それらを取りまとめて、また被災地支援の活動に寄付させていただきます。
 寄付先はまだ決まっていないのですが、今回の能では福島に祈りが捧げられ、また岩手の中尊寺蓮もテーマとなっていたことから、何か所縁のあるところにお送りできればと、思っております。


《これまでの歩み》

第1回 2011年4月17日 「アートステージ567」にて
  岩手弁による賢治作品朗読: すがわら・てつお/いいだ・むつみ(フランスシター)
     ⇒京都新聞社会福祉事業団に、15万2610円を寄付

第2回 2011年9月4日 法然院本堂にて
  現代能「光の素足」らいぶ公演: 中所宜夫
     ⇒宮沢賢治学会「イーハトーブ復興支援義援金」に、16万0815円を寄付

第3回 2012年3月4日 京都府庁旧本館正庁にて
  かたり「なめとこ山の熊」他: 竹崎利信/友枝良平(揚琴)
     ⇒大槌町教育委員会および陸前高田市教育委員会に、12万円を寄付

第4回 2012年12月2日 龍谷大学アバンティ響都ホールにて
  歌でつづる宮沢賢治の世界: 大神田頼子(S) 浦恩城利明(Br) 小林美智(Pf)
     ⇒陸前高田市「にじのライブラリー」に、11万0819円を寄付

第5回 2013年7月28日 京都府庁旧本館正庁にて
  ひとり語り「よだかの星」他: 林洋子/梅津三知代(アイリッシュハープ)
     ⇒「福八子どもキャンププロジェクト」に、7万2279円を寄付

賢治学会京都セミナー「宮沢賢治・修羅の誕生」

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 来たる4月20日に、京都市左京区の京都造形芸術大学において、宮沢賢治学会の地方セミナーが、「宮沢賢治―修羅の誕生」と題して開催されます。(下のチラシ画像をクリックすると、別窓で拡大表示されます。)

 京都セミナー2014・チラシ表

 京都セミナー2014・チラシ裏

宮沢賢治学会・京都セミナー2014
                《宮沢賢治―修羅の誕生》

   日時: 2014年4月20日(日) 午前10時〜午後4時
   場所: 京都造形芸術大学 人間館301教室
   内容
     講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
     朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
     講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
     講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
   参加費: 500円(小学生以下無料)
   申込: kenjikyoto2014@gmail.com あてメールにて
      または
      〒606-8271 京都市左京区北白川瓜生山2-116
       京都造形芸術大学 永倉気付
       宮沢賢治学会京都セミナー実行委員会あて往復葉書にて

 実は、この2014年4月20日という日は、1924年4月20日に宮沢賢治が処女詩集『春と修羅』を関根書店から刊行してから、図らずもちょうど90周年の記念日に当たります。先月16日、京都造形芸術大学の中路正恒研究室において、京都セミナーの実行委員会のメンバーが初めて集まって打ち合わせをしている最中に、私はふとこの偶然の符合に気がついて、思わず中路さんに告げたのでした。
 今回のセミナーの日程は、当初はいったん4月19日になりかけていたのが、都合で4月20日に変更になったという経緯もあり、この記念すべき日付は、まさに「図らずも」の結果でした。この日の実行委員会では、皆でしばし「不思議なめぐり合わせ」の感慨を味わった後、中路さんの提案で「宮沢賢治―修羅の誕生」というセミナーのタイトルが、決められました。
 そうです、この言葉には、「『春と修羅』の誕生日」という意味が込められているのです。

 当日のプログラムでは、まず私が導入的に、賢治が2度にわたり京都を訪れた時の様子や、立ち寄ったと推測される場所の現状について、報告をいたします。賢治と京都の「縁」を、浮かび上がらせることができたらと思います。
 次に、宮沢賢治記念館副館長の牛崎敏哉さんが、賢治の「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(『春と修羅 第二集』)を、賢治が聴いていたであろうジャズの響きに乗せて、スイングしながら朗読し、解説をして下さいます。賢治とクラシック音楽の関連については、近年いろいろな人が論じていますが、今回は新たにジャズとのつながりに光が当てられます。

 休憩をはさんで、京都造形芸術大学に所属するお二人の先生、君野隆久さんと中路正恒さんのご講演は、仏教や哲学思想の方面から、賢治にアプローチするものです。京都という場所は、長らく日本における仏教の中心地でもありました。そのような京都において研究を積み重ねてこられた視点から、賢治論が展開されます。

 4月20日というと、もう桜は散ってしまった頃ではありますが、この時期の京都では、「春の特別公開」を行っているお寺も、たくさんあります。
 会場の教室はかなり大きくて余裕はあるそうですので、皆さまどうぞ、春の京都へお越し下さい。

京都造形芸術大学キャンパスより
京都造形芸術大学キャンパスより

なぜ往き、なぜ還って来たのか(2)

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 去る3月2日に「第6回イーハトーブ・プロジェクトin京都」が終わった後、出演者や裏方の皆さんと、それに会場を提供して下さった法然院の住職である梶田真章さんもご一緒に、近くの小さなイタリア料理店で、ささやかな「打ち上げ」を行いました。
 その席で、東日本大震災と関連して、「鎮魂」というテーマが話題になっていたのですが、この時に法然院の梶田さんがふとおっしゃった次のような言葉が、とても印象に残りました。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 これこそが、人間の手の届かないところは全て「他力」に託すという、阿弥陀信仰の神髄なのだなあとその時は感じ入ったのですが、その後、これは宮澤賢治が妹トシの死後に、いかにしてその悲しみを乗り越えていったのかという問題とも、通ずるものがあると思いましたので、本日はそのことを少し書いてみます。
 タイトルは、もうはるか昔に書いた「なぜ往き、なぜ還って来たのか(1)」という記事の、3年ぶりの続篇という形で、その(2)としました。

◇          ◇

 3年前のテーマは、「双子関係にある」とも言われる賢治の童話「ひかりの素足」と、「銀河鉄道の夜」とは、どこが違うのかということで、前回はこれについて考える途中で終わっていました。
 今回、二つの作品の最も大きな違いとして私が注目するのは、「死者の行方が明らかにされているか否か」、ということです。

 「ひかりの素足」では、一郎は弟の楢夫と一緒に雪山で遭難してしまい、必死で弟を守りつつも、結局は二人もろとも雪に埋まってしまいます。そして次に一郎が気がつくと、そこは「うすあかりの国」でした。一郎と楢夫は、鬼たちに鞭で追い立てられながらひどい道を歩かされますが、ここでも一郎はけなげに弟を守ります。
 そしてついに「ひかりの素足」の人が現れ、その人は楢夫には「お前はもうこゝで学校に入らなければならない」と言ってその世界にとどまらせる一方、一郎には「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」と言って、生の世界に送り返します。
 つまり、一郎はずっと楢夫に付き添って楢夫を守ってやり、その行き先を見届けた上で、帰ってくるのです。

 これに対して「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラと一緒に銀河鉄道に乗りますが、最後の場面でカムパネルラはジョバンニの前から、忽然と姿を消してしまいます。

 「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ち上がりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれから咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

 この時点でジョバンニには、カムパネルラの行方はわからず、彼が死んでしまったのだということさえ知りません。

 この上さらに輪を掛けて、川におけるカムパネルラ捜索の場面で、カムパネルラのお父さんがその打ち切りを宣言する言葉も、印象的です。

「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」

 普通の親の感覚なら、我が子がまだ生きている確率が0.1%でもあるなら、必死で捜索を続けるでしょうし、みんなにもお願いするでしょう。また、たとえ生存は絶望的な状況になったとしても、せめて遺体だけでもこの手に抱いてやりたいと思って、やはり捜索はやめないでしょう。
 以前の私は、この場面のお父さんの態度が不思議でならなかったのですが、今ではこれは、「いとしく思う者の行方がわからない」ということ、それこそがよいのであるという、賢治が苦悩の末にたどり着いた考えによるものだろうと思っています。
 すなわち、「薤露青」における、次の一節に表れている思想の具現化です。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 つまり私としては、「ひかりの素足」において、一郎が弟に必死に同伴し死後の世界での行く末を見届けたのに対して、「銀河鉄道の夜」では、ジョバンニはカムパネルラの行方を知らず、父親も無理に捜そうとしないという大きな相違があるは、この間の賢治自身の「愛する死者」に対する考えの変化を、反映したものだと思うのです。

◇          ◇

 學燈社『宮沢賢治の全童話を読む』に収められている「ひかりの素足」の解説において、杉浦静さんは、賢治がこの童話を書いた時期について、次のように分析しておられます。

 「ひかりの素足」は、複雑な過程を経て成立している。現存する草稿には三種の原稿用紙が混用されている。これらを仮にA・B・Cとすると、Aは22枚、Bは17枚、Cは7枚の計46枚が使用されている。最初A・Bを用いた第一形態が最後まで書かれ、その後原稿の差し替えやさまざまな筆記具を用いた手入れが行われた後、最終段階で、C原稿用紙を用いた原稿の差し替えが行われ、現存の「ひかりの素足」が成立している。
 これまでの研究でA・Bが併用されたのは、大正11年11月頃まで、Cは大正12年以降に使用されたと推定されている。賢治は「お」の字を書くとき、大正11年以前は点がすべて離れ、11年中につながり始め、12年以降はすべてつながる書体の推移も明らかにされている。「ひかりの素足」草稿では、A・Bに現れる「お」はすべて点が離れているが、Cに一例のみ、つながるものが現れている。これらから、第一形態の成立は大正11年前半頃まで、現存の最終形態の成立は大正12年頃と推定できる。

 トシが死去したのが、1922年(大正11年)11月ですから、第一形態が成立したのは、その年の前半だということになります。以前に、「死ぬことの向ふ側まで」という記事に書いたように、賢治が短篇「イギリス海岸」において、もしも生徒が溺れたら、「死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらう」と書き記したのは、1922年(大正11年)8月9日のことと推測され、これは「ひかりの素足」の第一形態の成立時期と、だいたい一致します。
 つまり、この頃すでに死期が近づいていた妹のことを思いながら、賢治は「イギリス海岸」を書き、さらにまさしく兄が弟に付き添い「死ぬことの向ふ側まで一緒について行」くという話である、「ひかりの素足」の第一形態を、原稿用紙に記したのです。

 トシの死後の賢治は、深い悲しみを抱える一方で、トシの魂がいったいどこへ行ってしまったのかということについて、考え続けます。
 翌年の1923年(大正12年)夏に、北海道からサハリンを旅した背景にも、この問題について思索を突き詰めようとうする気持ちがありました。
 この旅行中の作品群に、賢治の思いは表現されています。

 まず「青森挽歌」では、次のように。

(前略)
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
(中略)
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
(後略)

 また「オホーツク挽歌」では、次のように。

わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 さらに「噴火湾(ノクターン)」では、次のように。

駒ヶ岳駒ヶ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
    (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 このように、賢治は旅行中も、トシの行方について思い悩むことを止めることはできなかったのですが、旅行の後、おそらく1923年(大正12年)の後半に書いた「手紙 四」という短い文書において、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と、まるで自らに言い聞かせるかのように、宣言します。

 この賢治の葛藤が、さらに昇華されて一つの安定を見るのは、さらに翌1924年(大正13年)夏のことです。
 この年7月の「〔この森を通りぬければ〕」では、次のように。

鳥は雨よりしげくなき
わたくしは死んだ妹の声を
林のはてのはてからきく
   ・・・・・・それはもうさうでなくても
        誰でもおなじことなのだから
        またあたらしく考へ直すこともない・・・・・・

 で、先にも引用した、「薤露青」へと続きます。

・・・・・・あゝ いとしくおもふものが
     そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
     なんといふいゝことだらう・・・・・・

 そして、この年の夏が、おそらく「銀河鉄道の夜」のスタートにあたるのです。入沢康夫さんは『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(宮沢賢治記念館)において、「銀河鉄道の夜」が最初に書かれた時期について、

 《着想は一九二四年の夏で、着手はその秋》というあたりが、おそらく正しい答ではではないだろうか。

と、書いておられます。

 つまりこの物語は、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」という思想に立って書かれたのであり、それだからこそ、カムパネルラはジョバンニの前から何処へともなく突然姿を消してしまうし、その父親も我が子の捜索にこだわらないのだと思うのです。

◇          ◇

 さて、ここで冒頭に記した、浄土宗の梶田真章和尚の言葉に戻ります。

本当は、「鎮魂」などしなくともよいのです。
亡くなった人のことは、ただ阿弥陀様にお任せするしかありません。
死者の魂を鎮めるということは、本来は人間の仕事ではないのです。

 ここで梶田さんがおっしゃっていることは、「愛しく思う者がどこへ行ってしまったかわからない」ことをそのまま受け容れて、あとは思い悩まないようにする、という賢治がたどり着いた思想に、そのままつながるものがあります。

 あるいは親鸞は、『歎異抄』の中で、自分は死んだ父母のために念仏を唱えたことは、一度もないと言っています。

     第五条
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもて世ゝ生ゝの父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に、仏になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。(角川ソフィア文庫『新版 歎異抄』より)

 すなわち、すべての生きとし生けるものは、長い年月の間に生まれかわり死にかわりするうちには皆が父母や兄弟となるものだから、父母を救うということは、実はすべての生き物を救うということであるが、それはとてもできないことである。ただ自力を捨てて、浄土に生まれ仏となった時には、父母をはじめ縁のある者を救うこともできるのだ、というわけです。
 『歎異抄』のこの一節は、「青森挽歌」において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》として登場する命題と、途中までは同じことを言っている点が、非常に興味深いところです。後半において、親鸞は「だから現世では、自分のため以外には祈らない」という結論になるのが、賢治の場合には、たった今から「大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という方向に行くところが、違っています。
 しかし、血縁者だからと言って特別に祈ったり供養したりしない、というところは、親鸞の考え方と同じなのです。

 一方、賢治が熱心に信仰していた日蓮の場合には、このあたりはかなり違っているのです。
 すなわち、日蓮は「十王讃歎鈔」においては、罪人が死んで閻魔大王の前に連れて来られた時、その子供が現世において「追善をなし逆謗救助の妙法を唱へ懸れば成仏する」と書き、また「上野尼御前御返事」においては、無間地獄に落ちている親のためにその息子が法華経の題目の一字を書いただけで、親が救われたという中国の話を引用して、いずれも亡き親のために追善供養をすることの重要性を、説いています。

 おそらくこのような日蓮の主張にも影響されて、賢治は1918年(大正7年)に親友の保阪嘉内が母親を亡くした際には、「あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい」と書き送ります(書簡75)。

此の度は御母さんをなくされまして何とも何とも御気の毒に存じます
御母さんはこの大なる心の空間の何の方向に御去りになったか私は存じません
あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう。
あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになつて御母さんの前に御供へなさい。
あなたの書くのはお母様の書かれるのと同じだと日蓮大菩薩が云はれました。
あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思議の神力を以て母親の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光となり若し火の中に居られゝば(あゝこの仮定は偽に違ひありませんが)水となり、或は金色三十二相を備して説法なさるのです。(後略)

 「あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりになったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう」と賢治が親友に書いた4年後に、今度は賢治の方が、自分の妹に関して「どこに行ったか至心に求める」ことになろうとは、まだこの時は思いもよらなかったでしょう。
 妹の死後、おそらく賢治は、妹のためにと念じて法華経の題目を唱え、書き写しもしたはずです。しかしそれでも、賢治の心は安まらなかったのです。

 そのような苦悩の末に賢治が自戒するようになった、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題や、「死者の行方を気にしない」という態度は、実は日蓮の教えとはかなり異なっていて、むしろ彼が幼年時代から親しみ、信じ、やがて青年期に捨てることになった、親鸞の教えと一致しているのです。

 ということで、ある時からは一途に法華経と日蓮を信仰していたはずの賢治ですが、その思想の内容には、複雑な重層的な要素も感じられる、というお話でした。

法然院・阿弥陀如来座像
法然院・阿弥陀如来座像

4月20日は京都造形芸術大へ

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 2週間ほど前から体調を崩してしまって、こりゃあ4月20日の講演はどうなるのだろうとやきもきしていたのですが、今日あたりは何とか回復して胸をなでおろしているところです。(^^;)ゞ
 さて、今度の日曜4月20日に京都造形芸術大学の人間館301号室で行われる「宮沢賢治学会京都セミナー《宮沢賢治 修羅の誕生》」の内容は、以前にもご案内したとおり、下記のようになっています。

  9:30 開場
10:00 挨拶 中路正恒
10:10 講演「宮沢賢治、京都に来る」 浜垣誠司
11:20 朗読と解説「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」 牛崎敏哉
13:40 講演「宮沢賢治とジャータカ」 君野隆久
15:00 講演「宮沢賢治と修羅」 中路正恒
16:10 まとめと挨拶 栗原敦

 個人的にいちばん楽しみなのは、やっぱり牛崎敏哉さんによる賢治の詩のパフォーマンスですが、午後のお二人の講演も、きっと重厚なものになるのではないでしょうか。

 会場はとても大きな教室で、まだ席に余裕はあるそうですから、賢治に関心をお持ちの方は、ぜひお越し下さい。
 kenjikyoto2014@gmail.com までメールをいただければ、参加予約をすることができます。

 私自身のスライドもだいたいできて、ぼちぼちと点検しているところです。「パワーポイントという特殊なソフトウェア」(by 古舘伊知郎さん)を使って…。

「宮沢賢治、京都に来る」1

「宮沢賢治、京都に来る」4

ヴェッサンタラ王の布施

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 去る4月20日に行われた「宮沢賢治学会京都セミナー2014」は、この種の地方セミナーとしてはかなり多い113名もの方々がご参集下さり、熱気にあふれた会となりました。
 はるばる遠方から、あるいは地元京都からお越しいただいた皆様に、あらためて御礼申し上げます。

◇          ◇

 セミナーの演目中、君野隆久さんは「宮沢賢治とジャータカ」と題した講演において、「ジャータカ(本生譚)」と称される一群の仏教説話が、いかに賢治の作品に影響を与えたかということを、具体的な例を挙げながらわかりやすく説き明かして下さいました。

君野隆久氏講演「宮沢賢治とジャータカ」

 「宮沢賢治とジャータカ」などというタイトルを見ると、何となく超マニアックなお話なのかなと思って、はたして私自身の興味がついて行けるかと事前に心配していたのですが、実際にお聴きしてみると、これはある一つの角度から賢治の精神性の本質にも迫る非常に面白いお話で、君野さんの賢治に対する思いも、そこここに垣間見えました。

 「ジャータカ」とは、釈迦の前世(過去世)における様々な伝説を集めた説話集、あるいはその個々の説話のことだそうですが、賢治は「手紙 一」や「学者アラムハラドの見た着物」においては有名なジャータカを再話あるいは引用し、「オツベルと象」や「四又の百合」においてはジャータカの中のモチーフ(白象、供花など)を作品に生かし、さらに「二十六夜」においては、新たなジャータカを創作しようとしたのだということです。

 様々なジャータカを読んでいたと推測される賢治ですが、中でも特に強い関心を抱いていたと思われるのが、「ヴェッサンタラ王」という特異な人物が登場する説話です。賢治はこの「ヴェッサンタラ・ジャータカ」の一部を、1918年(大正7年)12月の保阪嘉内あて書簡94において引用し、1923年(大正12年)頃の執筆とされる童話「学者アラムハラドの見た着物」においても引用し、1927年の日付を持つ詩「ドラビダ風」においても引用しているのです。

 賢治がどのようにしてこの「ヴェッサンタラ・ジャータカ」を知ったのかという問題について、伊藤雅子氏は、1918年(大正7年)6月15日に発行された『国訳大蔵経』第十三帙に収められている「ヱ゛ッサンタラ所行品」で読んだのではないかと推定しておられますが(宮沢賢治研究Annual Vol.14所収「ベッサンタラ王渉典」,2004)、その原典の伊藤雅子氏による要約は、以下のとおりです。

 ヱ゛ッサンタラの父母はヂェーツッタラの都で結ばれた。母が布施のための巡行を終えて、吠舎種の街路の中央に来た時に出産したためヱ゛ッサンタラと名づけられた。八才のとき乞う者の願いに従って何物をも、たとえ我が身であろうとも、求められれば与えようと考えた。彼が自分の身体に思いをいたしたとき大地が震え動いた。月に三回布施した。
 あるときカーリンガ国の婆羅門が来て、雨が降らず大飢饉になったので吉徳ある白象を下さいと願った。あえて布施行を貫くために与えた。そのとき大地が震えた。シヰ゛国民は怒ってワ゛ンカの山へ入れと言った。都を去るときシヰ゛人に耳鼓を打たせて大施を行い、象・馬・車・奴・婢・牛・財を施した。大地が震えた。
 赤蓮・白蓮のようにマッヂー妃は娘カンハーヂナー(妹)を抱き、ヱ゛ッサンタラは息子ヂャーリー(兄)を金像のように携えた。森林を通りかかったとき子らが高い木になる果実を見て泣くと、その木が自ら曲がって近づくという不可思議が起きた。
 ワ゛ンカ山の林中で茅舎に住み果実を拾って暮らした。旅の婆羅門が二子を与えよと乞うたので、喜んで与えたところ、大地が震えた。次に帝釈天が婆羅門に姿を変えて妃を求めたので喜んで与えた。大地が震えた。ひたすら一切智を求めるために愛する妻子をも与えたのであった。
 のちにヱ゛ッサンタラが父母と再会したとき大地が震えた。親族とともに林を去りヂェーツッタラに戻ったとき、天より七宝が降り大雨が注ぎ大地が震えた。ヱ゛ッサンタラの施与の力によって計七回大地が震えた。(伊藤雅子「ベッサンタラ王渉典」より)

 そして以下には、賢治によるこのジャータカの引用を、順に挙げてみます。
 まず、1918年(大正7年)12月の、保阪嘉内あて書簡94より。

ベッサンタラ王が施しをした為に民の怒りを買ひ王宮を逐はれ二人の子をつれて妃と山へ入りました。密林の中には多くの果実が実り子等はこれを求めて泣き叫びました。
木は自ら枝を垂れ下して果実を与へました。身毛為に堅つべきこの現象よ。これは王の過去に積んだ徳行によるのでせう。

 次に、「学者アラムハラドの見た着物」より。アラムハラドが子供たちに教え聞かせているところです。

 「あの木は高くてとゞかない。私どもはその実をとることができないのだ。けれどもおまへたちは名高いヴェーッサンタラ大王のはなしを知ってゐるだらう。ヴェーッサンタラ大王は檀波羅蜜の行と云ってほしいと云はれるものは何でもやった。宝石でも着物でも喰べ物でもそのほか家でもけらいでも何でもみんな乞はれるまゝに施された。そしておしまひたうたう国の宝の白い象をもお与へなされたのだ。けらいや人民ははじめは堪えてゐたけれどもついには国も亡びさうになったので大王を山へ追ひ申したのだ。大王はお后と王子王女とただ四人で山へ行かれた。大きな林にはいったとき王子立ちは林の中の高い樹の実を見てああほしいなあと云はれたのだ。そのとき大王の徳には林の樹も又感じてゐた。樹の枝はみは生物のやうに垂れてその美しい果物を王子たちに奉った。
 これを見たものみな身の毛もよだち大地も感じて三べんふるえたと云ふのだ。いま私らはこの実をとることができない。けれどももしヴェッサンタラ大王のやうに大へんに徳のある人ならばそしてその人がひどく飢えてゐるならば木の枝はやっぱりひとりでに垂れて来るにちがひない。それどころでない、その人は樹をちょっと見あげてよろこんだだけでもう食べたとおんなじことになるのだ。」

 そして、「ドラビダ風」(詩ノート)より。

(前略)
風は白い砂を吹く吹く
もういくつの小さな砂丘が
畑のなかにできたことか
汗と戦慄
牛糞に集るものは
迦須弥から来た緑青いろの蠅である
   ヴェッサンタラ王婆羅門に王子を施したとき
   紺いろをした山の稜さへふるえたのだ
右へまはれ
左へまはれ
汗も酸えて風が吹く吹く
   もし摩尼の珠を得たらば
   まづすべての耕者と工作者から
   日に二時間の負ひ目を買はう

 伊藤雅子氏が挙げた『国訳大蔵経』第十三帙は、1918年(大正7年)6月15日に刊行されているので、時期的に見ても、1918年(大正7年)12月の保阪嘉内あて書簡94には間に合います。また、賢治が書簡中で「身毛為に堅つべき」と表現している箇所が、『国訳大蔵経』では「身毛ために堅起すべき哉」と記されているなど、その表現の類似からも、賢治がこれを読んでいた可能性は高そうです。
 ただ、賢治は「ベッサンタラ王」「ヴェーッサンタラ大王」「ヴェッサンタラ王」と、いずれの引用においても「王」または「大王」の称号を付けているのに、上に引用したように『国訳大蔵経』第十三帙においては、このような称号はなく「ヱ゛ッサンタラ」とのみ記されているのが、両者の大きな違いです。
 これについて伊藤雅子氏は、賢治はさらに1918年(大正7年)2月28日に発行された『国訳大蔵経』第十二帙に収められている「国訳弥蘭陀(ミリンダ)王問経」の記述が念頭にあったのだろうと推測しておられます。すなわち、この経典中では、「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)大王」「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)王」として、「大王」や「王」の称号を伴って登場するのです。
 ところで、この「国訳弥蘭陀(ミリンダ)王問経」の中の「吠三多羅(ヱ゛ーツサンタラ)王の布施に就て」という文章において、王が二人の子供を布施してしまう箇所の記述があまりに印象的ですので、伊藤雅子氏の要約を下記に引用させていただきます。

 菩薩(=ヴェッサンタラ王:引用者注)はあえて最愛の子らを婆羅門に奴僕として布施した。子らは縄で黒あざができるほどきつく縛られてひきずられていった。子が縄を解いて戻ってきたとき、再び縛って婆羅門に与えた。子らが泣いて「お父さま、此鬼が私共を喰ひに連れ去ります」と叫んだのを、「怖はがりなさるな」と言って慰めた。王子闇梨(ヂャーリ)が父の足下に打ち倒れ「お父さま、〔我が妹〕カンハーギナーだけは許して下さい、私が彼の鬼と一緒に参ります、私は彼に喰べられませう」と嘆願しても、婆羅門の求めが二子であったために許すことができなかった。(伊藤雅子「ベッサンタラ王渉典」より)

 ここで、「〔我が妹〕カンハーギナーだけは許して下さい、私が彼の鬼と一緒に参ります」と兄のヂャーリが言うところを読むと、賢治の童話「ひかりの素足」において、鬼の鞭に打たれる弟をかばって兄の一郎が言った、「楢夫は許して下さい、楢夫は許して下さい」という言葉を、私は思い起こさずにはいられません。

◇          ◇

君野隆久氏講演「宮沢賢治とジャータカ」

 さて、君野隆久氏はこの講演において、(1)なぜ賢治はヴェッサンタラ・ジャータカに惹かれたのか、(2)どんな資料によって、このジャータカを知り得たのか、という二つの疑問を提出されました。
 このうち(2)については、上に引用させていただいたように、伊藤雅子氏が一つの(かなり確からしそうな)説を提唱しておられます。
 今日はここで(1)について、すなわち「なぜ賢治はヴェッサンタラ・ジャータカに惹かれたのか」という問題に関して、私なりの考えを記してみたいと思います。

 このヴェッサンタラ王の話において、読む者に最も強い印象を与えるのは、やはり王が最愛の子供2人と妻を、人の求めに応じて「布施」してしまうところです。王が様々な財宝を人に施したという話など、たとえそれが国の宝と言われる白象であったとしても、「肉親を捨てる」というこの衝撃的な布施の前では、全くかすんでしまいます。
 一方、様々なジャータカの中には、いわゆる「捨身」=自己犠牲の説話も、たくさん出てきます。自分の皮を猟師に与え、自分の肉を虫たちに与えたという竜の話もそうですし、あの「捨身飼虎」の話もそうです。賢治は、もちろんこの種の自己犠牲の話にも偏愛を示し、上記の竜のジャータカは「手紙 一」として翻案していますし、「我が身を犠牲にして人を助ける」という話は、種々の童話に登場します。
 これらに比してヴェッサンタラ王の話の特異性は、「我が身」ではなく、ある意味で「我が身以上に大切な」子供や妻を、他人のために与えてしまうところです。ある人々は、これを「冷酷非情な行い」と感じるでしょうが、真の家族の情愛を知る者にとっては、これは恐ろしいほどに深く強靱な、「喜捨の心」とも受け取れます。

 そして、家族愛の深い家庭に育った賢治にとっても、やはりこれは我が身を捧げる布施以上に、衝撃的な話だったのではないでしょうか。
 父母+兄+妹という家族構成は、ある時期までの宮澤家と同じであり、父は自ら病気になってまで息子を看病するほどの人であり、母もまたこの上なく優しい人であったと言われています。そして、兄と妹の仲の良さも、皆様ご存じのとおりです。
 賢治にとっての「家族」がこのようなものであってみれば、その父親が自分たちいたいけない子供を、他人の求めに応じて、奴婢として与えてしまうという行動が意味するところは、身を切るほどに痛く、ありありと感じられたことでしょう。
 これは確かに、賢治がヴェッサンタラ・ジャータカに強い感銘を受けた理由の一部を構成しているでしょう。

 しかし、賢治が生涯にわたってこの説話を三度も引用した理由について、このように解釈してみただけでは、何かとても皮相にとどまっている感を禁じ得ません。
 賢治がヴェッサンタラ王の行いに惹かれた背景には、何かもっと深いものが潜んでいるのではないでしょうか。

 これについてより深く考えてみるためには、上記のように賢治がもう一方では、「捨身=自己犠牲」というテーマにも非常に強く惹かれていた、その背景にある要因を見てみることが、参考になるでしょう。
 賢治が、「自己犠牲」をモチーフとして様々な作品を書いた理由は、「我が身を捨ててまで他者を助ける」という行為が、それだけ強固な利他心を、直截に表現しているからでもあるでしょう。しかし、このような単純な見方にとどまらず、その奥にある心理を想定してみることもできます。
 それは、「賢治は、(他者を助けるという)その行為自体の目的とは別に、とにかく我が身を捨てたいという衝動を、心の奥底に抱えていた」という、深層心理学的解釈です。

 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』において、賢治には「存在の罪」というようなやむにやまれぬ意識があって、この「罪」を消滅させるために、「我が身を焼き尽くす」という「焼身幻想」を抱いていたと、分析しています。そしてこの「焼身幻想」が「自己犠牲」と結びつくことによって、一つの「合理化」がなされ、「捨身」は単に自己満足のためになされるのではなく、「他者のために」なされるという意味が付与されるのです。
 この立場から見れば、「よだかの星」も、「蠍の火」の話も、あるいは「グスコーブドリの伝記」も、そのような形で「合理化された焼身幻想」であるという側面を持ちます。

 これを同様に敷衍すれば、ヴェッサンタラ王が我が子を布施してしまうという話に賢治が惹かれているその背後の闇には、「実は賢治は、父親から放逐されたいという無意識的な願望を抱いていた」という仮定を、置いてみることができます。
 私がこういうことを考えてみる理由は、1918年(大正7年)当時の賢治という若者は、家父長たる父親が、その人格的・社会的偉大さと、「イエ」の論理と、家族に対する深い愛情によって、完璧に作り上げた「牢獄」の中に、まさに囚われの身になっていたと感じるからです。

 もともと商人には学問は必要ないということで、中学までしか行かせてもらえなかったところを、父親の特別の「慈悲」によって高等農林学校に進学させてもらい、晴れてその学校を卒業したからには、長男として家業を継ぐという宿命からは、もはや何をやっても逃れることはできず、しかしどうしてもその家業には嫌悪感しか抱けないという状況に、当時の賢治はありました。
 それまでの賢治は、東京で起業をしたいとか、アメリカに行きたいとか、いろいろなことを言って逃げ道を模索してきましたが、どれも父親によって、赤子の手をひねるように却下されてしまいます。

 そして1918年(大正7年)2月になると賢治は、自分は徴兵検査を受けてシベリアに行くのだと言い出します。当時、第一次世界大戦は終結していましたが、ちょうどロシア革命の混乱に乗じて日本もシベリア出兵を準備している時期で、そうなると東北地方の第八師団などは、出征する可能性も高かったのです。
 父親は息子の身を案じて、高等農林学校の研究生ということにして徴兵検査を延期するよう強く勧めますが、賢治は言うことを聞きません。父の勧めに反抗して、徴兵を忌避することは「放縦なる心」「懈怠の心」を生むと主張したり、愛国心の大切さを述べたりもしますが、なぜ今すぐに検査を受けなければならないのか、賢治が持ち出す理屈には、あまり説得力はありません。

 結局さすがの父も、息子のあまりの強引さに押し切られ、賢治は1918年(大正7年)4月に、晴れて徴兵検査を受けました。しかし結果は、「体格や能力が劣る」という「第二乙種」となり、当面は賢治が徴兵される可能性は消滅します。
 つまり、「兵役によって家業から逃れる」という賢治の作戦は、失敗に終わったのです。きっと彼にとって、我が身が囚われている牢獄の塀は、一段と高くなったように感じられたことでしょう。

 そこに1918年(大正7年)6月、『国訳大蔵経』第十三帙が出版され、おそらく賢治はその中で、仲の良い家族の絆を断ち切り、愛する我が子を他人のもとへ「布施」してしまうという、衝撃的なヴェッサンタラ王の話を読んだのです。
 賢治から見れば、もしも自分の父親がヴェッサンタラ王と同じ行為をしてくれたならば、それは三者それぞれにとって、「一石三鳥」の結果を生みます。
 その「鳥」の一羽目は、布施をされる相手にとっての直接的利益。二羽目は、そのような尊い犠牲を払うことが父親にとっての善根となるという功徳。そして三羽目は、賢治にとって家という牢獄から解放されるという運命の転換。

 賢治は、このヴェッサンタラ王の行跡を読んだ時に、あのお気に入りの「捨身」の説話が醸し出す、一種の甘美さにも似た言い知れぬ魅力を、どこかに一抹感じたのではないかと、私は秘かに思っているのです。

青森県平内町の「銀河鉄道はくちょう駅」

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「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」
「あゝ、十一時かっきりには着くんだよ。」
 早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのほのやうなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
                          (「銀河鉄道の夜」より)

 「白鳥の停車場」と言うと、2010年に花巻市下小舟渡にある「イギリス海岸」バス停の待合室が可愛らしく改装されて、「はくてふ」という看板が掲げられたことを思い出します。

 「イギリス海岸」バス停待合室

 今回、去る5月3日に、私はこのバス待合室のはるか先輩として1990年に竣工した、青森県東津軽郡平内町の「銀河鉄道はくちょう駅」を訪ね、「二代目駅長」の佐藤陽子さんにお話をうかがってきました。

 この「はくちょう駅」は、青森県の中央部で陸奥湾に突き出した夏泊半島の突端にあります。

 5月3日朝、9時35分に花巻空港に着くと、 新花巻から新幹線に乗り、八戸で「青い森鉄道」に乗り換え、「小湊」で降ります。ここからは、平内町町民バスの東田沢線に乗り、夏泊半島の東岸を北上して、「東田沢入口」という停留所で降りました。

東田沢入口

 この漁村から、南へしばらく歩きます。左手には、美しい丸石の海岸が続きます。

夏泊半島の海岸

 そして15分ほど歩いて、海岸線から少しだけ山の方に入ったところに、「日高見荘」と名づけられた佐藤陽子さんのお宅がありました。

 実は私は、この佐藤さんのお宅の庭に賢治の「青森挽歌」を刻んだ詩碑が建てられていることを、十数年前から情報としては知っていて、機会があればぜひ訪ねてみたいと思っていたのでした。それで、5年ほど前のお盆休みには、佐藤さんにお電話をして、詩碑と「はくちょう駅」を見学するためにうかがってもよいかということを、お尋ねしてみたこともあったのですが、この時は佐藤さんのご都合が悪く、実現には至りませんでした。
 そしてこのたび、前回も無理だったし佐藤さんもご高齢だから、私としてはもう「ダメもと」という心境で、アポなしで突然うかがったのですが、運よく佐藤さんはご在宅で、私はついに長年の念願かなって、詩碑と「はくちょう駅」を拝見することができたのです。

 まず、「銀河鉄道はくちょう駅」の全景は、下のようになっています。後ろに見えているのは、陸奥湾の水平線ですね。

「銀河鉄道はくちょう駅」全景

 もう少し近づいて見ると、こんな様子。

「銀河鉄道はくちょう駅」

 ご覧のように、本物の鉄道線路が敷設されています。これは、青森の保線区から正式に購入した、実際に東北本線で使われていたレールなのだそうです。そして、敷かれている砂利も、JRの仕様どおりのものを、業者に注文したという念の入れようです。

 そして、駅の時計。

「はくちょう駅」の時計

 さはやかな秋の時計の盤面(ダイアル)には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきりと十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまひました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
                          (「銀河鉄道の夜」より)

 下のようなアングルで見ると、これはまさにどこかのローカル線に実在する小さな駅としか、思えなくなってきます。ほんとにいい雰囲気ですよね・・・。

「銀河鉄道はくちょう駅」

 お、こちらには、「駅長室」の標識が・・・。ちょっと入らせていただきましょう。

「はくちょう駅」駅長室標識

 ・・・ということで、ドアを開けて中に入れていただくと、そこは佐藤陽子さんの亡くなられたご主人である佐藤貞樹さんの、書斎+書庫になっているのでした。

「日高見荘」の、故佐藤貞樹さんの書斎

 そもそも、この建物は佐藤さんご夫婦の書庫として建てたもので、本が傷まないように南側の壁には窓を作らなかったのだそうですが、そうすると何となく殺風景なので、どうしようかとご夫婦で相談した結果、「これを駅舎にしてしまおう」という話になったのだそうです。「駅舎の壁」としてならば、窓がないことが結果的にかえって好都合になったというわけです。

 それから、今回私が佐藤さん宅を訪ねたもう一つの目的である、「青森挽歌」詩碑は、下のような美しいものでした。

「青森挽歌」詩碑

 刻字部分を拡大すると、下のようになっています。

「青森挽歌」詩碑拡大

 ということで、「青森挽歌」の冒頭8行が刻まれています。後で佐藤さんにお聞きしたところでは、この地に詩碑を建てる以上、「青森挽歌」を刻むことは最初から決めていたものの、この長大な作品のどの部分にするかということに関しては、かなり悩まれたのだということです。冒頭部分にするか、それとも最後の方にするかとかなり考えた末、最終的にはこの出だしのところが選ばれました。

はくちょう駅と日高見荘

 ということで、十分にお庭を見学させていただいた後には、右側の「はくちょう駅」から、左側の佐藤さん宅(「日高見荘」)にお邪魔させていただくことになりました。
 玄関のところでは、下のようなメッセージが迎えてくれました。

「ようこそはくちょう駅へ!!!」

 佐藤さんのお宅では、近所に住んでおられる画家さんや、たまたま遊びにこられた県庁職員の方ともご一緒に、「はくちょう駅」や「青森挽歌」詩碑を作られた経緯について、あれこれお話をうかがいました。
 「停車場を作りたい」と大工さんに言ったら、前述のようにいろいろなご縁からレールや砂利までがどんどん手配されていったり、「青森挽歌」詩碑を作ると弘前の賢治の会で言ったら、偶然にも碑石として岩木山の火山弾が手に入ったり、盛岡出身で弘前大学教授を務める美術家・村上善男氏がデザインを引き受けてくれたり、不思議なめぐり合わせによって、当初は考えていなかったことまでが次々と実現する展開になっていったということでした。
 それはまさに、この駅と詩碑が、この場所に生まれるべくして生まれたのだという感じを与えてくれるお話でした。
 また、以前に国語の先生をしておられた佐藤さんが、引退後も様々な文学作品の「語り」の活動を続けられる中で、賢治の「水仙月の四日」を語った時のお話なども、とても興味深かったです。

高橋竹山記念資料室より 13年前に亡くなられた佐藤さんのご主人の佐藤貞樹さんは、青森県芸術鑑賞協会の事務局長として、長年にわたり青森県内で数多くの音楽や演劇の公演を企画する一方、津軽三味線の高橋竹山のマネージャーのような役割を務めつつ、竹山の三味線を全国に紹介することを、ライフワークとされた方でした。
 そのような経緯で、佐藤さんのお宅は、「高橋竹山記念資料室」としての側面も持っているのですが、この日は賢治のお話に加えて、その資料室で竹山の貴重な録音なども聴かせていただいたり、津軽三味線の歴史に関するレクチャーなどもしてもらいました。
 おかげで私は、旅行を終えて家に帰ってからも、津軽三味線にちょっとはまっている今日この頃です。

『竹女 ぼさまの三味線を弾く』『高橋竹山に聴く―津軽から世界へ』

 というわけで、最後には佐藤さんのご著書まで頂戴して、また県庁職員さんには小湊駅まで車で送っていただき、八戸に泊まるんだったら屋台村の「しおさい」という店が美味しいよ、などとも教えていただいて、帰途についたのでした。

 さて、下の写真は、佐藤さんのお宅にあった猫の人形です。右側の三味線を弾いている猫は、高橋竹山と行動をともにしたご主人の佐藤貞樹さんを、左側のセロを惹いている猫は、宮澤賢治を愛する佐藤陽子さんを表していて、まさに仲が良かったお二人の象徴となっています。

三味線を弾く猫とセロを弾く猫

 なお、佐藤陽子さんと「はくちょう駅」のことは、下記のページでも紹介されていますので、ご参照下さい。
  ・「夕陽無限好し(せきようかぎりなくよし)


何をやっても間に合はない

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 もう少し前のことですが、現代美術家で「きのこライター」でもある @H_Fukumoto さんが、「賢治にはきのこ栽培に関する詩もある」というツイート(下記)をしておられたので、その詩とはどれのことですか、とお尋ねしました。

 すると @H_Fukumoto さんは、『春と修羅 第三集』の「〔何をやっても間に合はない〕」だと、即座に教えて下さいました。
 作品本文を確認してみましょう。下記が、その全文です。

一〇九〇
               一九二七、八、二〇、

何をやっても間に合はない
そのありふれた仲間のひとり
雑誌を読んで兎を飼って
巣箱もみんなじぶんでこさえ
木小屋ののきに二十ちかくもならべれば
その眼がみんなうるんで赤く
こっちの手からさゝげも喰へば
めじろみたいに啼きもする
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
カタログを見てしるしをつけて
グラヂオラスを郵便でとり
めうがばたけと椿のまへに
名札をつけて植え込めば
大きな花がぎらぎら咲いて
年寄りたちは勿体ながり
通りかゝりのみんなもほめる
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
マッシュルームの胞子を買って
納屋をすっかり片付けて
小麦の藁で堆肥もつくり
寒暖計もぶらさげて
毎日水をそゝいでゐれば
まもなく白いシャムピニオンは
次から次と顔を出す
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
べっかうゴムの長靴もはき
オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る
頬もあかるく髪もちゞれてうつくしく
そのかはりには
何をやっても間に合はない
何をやっても間に合はない
その(約五字空白)仲間のひとり
その(約五字空白)仲間のひとり

 私はあまり意識していなかったのですが、確かにここには、マッシュルームの栽培法が具体的に記されていますね。まず胞子を買って、納屋で小麦藁の堆肥にその胞子を播き、寒暖計で温度管理をしながら毎日水を注いでやれば、「まもなく白いシャムピニオンは/次から次と顔を出す」というわけです。これは栽培方法に関して、まさに簡にして要を得た記載です。
 @H_Fukumoto さんによれば、現代ならばマッシュルームの栽培は、「木やおがくずに菌糸を巡らせ済みのものを使うことが多い」とのことで、ここに書かれているように胞子から播くという方法を目にして、「時代を感じた」ということでした。

 そして次に @H_Fukumoto さんは、当時まだ日本で初めて栽培に成功してから間もないマッシュルームが、どのようにして岩手で栽培されるようになったのかということに、思いを馳せられます。

 上記ツイートに見るように、日本で初めてマッシュルーム栽培を行ったのは、森本彦三郎という人だったんですね。「千葉菌類談話会」による「千葉菌類談話会通信No.10」の記事を見ると、森本氏がアメリカでマッシュルーム栽培に成功したのは1912年ということで、上で指摘されているとおり、1927年に賢治が「〔何をやっても間に合はない〕」を書いた時点から15年前になります。さらにこの記事によれば、森本氏が日本で初めてマッシュルーム栽培を行ったのは、1921年(大正10年)に帰国して京都に農場を開いてからということですから、賢治の詩までは、あと6年しかありません。
 これは確かに、6年間の内にいったいどうやって東北岩手まで栽培法が広まったんだろうという疑問が起こります。いろいろ興味が湧いてきたので、調べてみることにしました。

 (なお、明治期にシイタケの人工栽培に成功した田中長嶺という人が、1891年に「新宿御苑での欧州産マッシュルームの栽培を手がけ、大きな成果を上げました」との記載が、愛知県西尾市による紹介ページにあります。これは、上記の森本彦三郎氏の栽培よりも前のことですが、この時点ではまだマッシュルーム栽培を実用化・普及させるまでには至らなかった、ということかと思います。)

 あれこれネットで調べつつ、例によって「国会図書館近代デジタルライブラリー」でマッシュルームの栽培について記した古い本を検索してみると、この当時のものもいくつか見つかりました。
  1927年以前に刊行されていた本としては、下の二つがありました。

『儲かる食用蕈の栽培法』    『莫大の利益ある茸類の栽培法』

 左の『儲かる食用蕈の栽培法』は1922年刊行、右の『莫大の利益ある茸類の栽培法』は1925年刊行ですから、いずれも「〔何をやっても間に合はない〕」より前のものです。そして、どちらの本にも当時の帝国図書館の「蔵書印」(前者には大正11年8月1日付、後者には大正14年10月21日付)が押されています。
 ということは、これらの本は賢治が1926年(大正15年)12月に上京して帝国図書館に通った時に、もしもその気になれば閲覧することが可能だったものです。そして内容的にも、どちらの本においても賢治作品と同じように、マッシュルームを胞子から育てる方法が説明されています。

 つまり、賢治が上京時にこういった本を帝国図書館で閲覧して、マッシュルームの栽培方法を新知識として吸収し、花巻に戻ってそれを農家の人々に伝えたということも、理論的には可能なわけです。しかしここで、これらの本の性格も含めてその内容をもう少し吟味してみると、それはちょっと違うのではないかという感じがしてきます。

 これらの本のタイトルは、『儲かる食用蕈の栽培法』『莫大の利益ある茸類の栽培法』というものであり、その性格は新たな知識や技術を客観的に記述した専門書ではなくて、「何か儲かる事業をやってみたい」と思っている一般農家の人々をターゲットにして、かなり戦略的に出版されたものだと言えます。
 内容を見ても、マッシュルーム栽培が他の仕事の片手間にもできる簡単なものであることを強調しつつ、また欧米ではマッシュルームが非常に多く食べられていて、もし今後日本でもこの食材が普及すれば、少ない労力で相当な利益が得られることが期待されるということを、重点的に宣伝しています。
 1922年や1925年の時点で、このように一般向けの「実利的」な本が出ているということは、このような情報は何も賢治が東京で調べてこなくても、1927年に岩手県の一般農家に普及していたとして、別に不思議はないのではないでしょうか。
 現に作品においては、マッシュルームの前に登場する「兎」に関しては「雑誌を読んで」と、また「グラヂオラス」に関しては「カタログを見て」と、直接の情報源が記されています。

 そう思って、「マッシュルーム + 栽培」というキーワードで国会図書館所蔵の当時の「雑誌」を検索してみると、『農業世界』の1926年1月号、1927年の5月号、8月号、9月号、11月号、1928年の11月号、『婦人之友』の1929年9月号などがヒットします。
 中でも1927年には、年に4号もの『農業世界』誌において、マッシュルーム栽培が取り上げられているわけで、その記事名を順に挙げてみると、「孵化室利用 マツシユルームの作り方」「趣味實用のマツシュルーム栽培法(一)」「趣味實用 マツシュルーム栽培法(二)」「マツシユルームの栽培日誌」という具合です。
 考えてみれば、この1927年とはまさに、「〔何をやっても間に合はない〕」が書かれた年であり、ひょっとしてこの年には全国の農家の間で、何か「マッシュルーム栽培ブーム」というようなものがあったのだろうか、という感じさえしてきます。

 ここでそのうちの一冊、『農業世界』1927年5月号の「目次」を見てみると、それは以下のようなものでした。

『農業世界』22巻6号
  時の流れと農村文化 / 佐藤昌介/18
  農村圖書館の經營 / 坪谷善四郎/20
  自作農創定維持に就て(三) / ?永孝一/23
  現代史上の農民天下(二) / 淺田江村/26
  小農と共同經營 / 草間耕生/31
  ?年論壇 / 愛讀者/35
  草苺の繁殖法と定植 //39
  花束の拵へ方 / 宮川紫外/40
  飼育簡易な兎の柵飼法 / 田中正實/44
  牝豚去勢法の研究 / 北村健之助/47
  養蠶撒土箱飼の實際 / 三宅康/51
  果樹病蟲害豫防驅除上の注意 / 本條正直/55
  稻作の改良法と増收法 //60
  芽挿繁殖 皐月苗の作り方 / 宮川紫外/77
  孵化室利用 マツシユルームの作り方 / 坪根吾市/80
  家兎の屠殺から製革までの方法(一) / 山崎光美/84
  趣味副業『カナリヤ』の飼ひ方 / 中村八郎/91
  圖解説明『おもと』栽培一覽(附表) / 大山毅 /
  野鼠の驅除法に就て / 岩山新二/111
  高級園藝の實地經營者へ / 長田傳/117
  食用蛙とその飼ひ方(一) / 森谷吉五郎/121
  日本の温室臺灣を訪ふ(二) / 高園校旅行班/131
  山下博士の養豚法 / 田中鯉二/136
  肥料常識 我輩は過燐酸石灰である / 山川尚農/138
  田園文學の提唱を讀みて / 笠松芙蓉/140
  農業上から觀た 偉人熊澤蕃山 / 今村猛雄/143
  納税常識 どんな場合に相續税がかゝるか / 福田喜代松/148
  土洗ひの日(村を訪ねて) / 山中省二/156
  鐘は響く(田園美談) / 野本守人/160
  本誌廣告料金の改正に就て //110
  農業世界代理部の開設に就て //110
  農業世界代理部々報 //176

 この号の巻頭言を書いているのが、花巻出身で北海道帝国大学の初代総長を務めている佐藤昌介であるというのも、これは何かの縁ですね。賢治はこの3年前に花巻農学校の修学旅行を引率して札幌を訪れ、佐藤昌介総長に面会しています。
 さらに一覧を見ると、44ページに「飼育簡易な兎の柵飼法」が、80ページに「孵化室利用 マツシユルームの作り方」が、84ページに「家兎の屠殺から製革までの方法(一) 」が掲載されていて、「〔何をやっても間に合はない〕」に登場する「兎」と「マッシュルーム」とが、ここに一緒に顔を揃えているのも、単に偶然と思えない組み合わせです。
 そもそも賢治の作品においても、「雑誌を読んで兎を飼って…」と書かれていましたし、この号の発行時期は「〔何をやっても間に合はない〕」の3ヵ月前と時期的にも近く、花巻の大先輩たる佐藤昌介博士の文章も掲載されているとなると、作品に出てくる農家の主は、何らかの縁でこの『農業世界』5月号を読んでいたのではないか…という気さえしてきます。

 ところで、この『農業世界』という雑誌は、明治32年から昭和43年まで刊行された農業関係のメジャーな月刊誌だったのですが、この号の充実した目次の中で、「稲作」あるいは「米」について扱った記事としては、60ページの「稻作の改良法と増收法」ただ一つだけというのは、何か不思議な感じです。私ども一般人というのは、何はともあれ稲作こそが農業の中心であり、農家にとっても主要な関心事なのではないかと思い込んでいる部分があります。
 ところが、この目次に登場する作物や動物といえば、「草苺」「花束」「兎」「豚」「養蠶(蚕)」「果樹」「皐月」「マッシュルーム」「カナリヤ」「おもと」「高級園芸」「食用蛙」・・・であって、これらは軒並みいわゆる農家の「副業」に関する記事ではありませんか。
 これはいったいどういうことなんだろう、当時の農業に何か起こっていたのだろうかと思って、今度はこの頃の農業情勢について、調べてみました。

『農村振興に関する一考察』 大正時代の農村の窮状がどのようなものであったか、たとえば貴族院議員で理化学研究所の第三代所長であった大河内正敏氏が、1924年(大正13年)に刊行した『農村振興に関する一考察』においては、その状況は次のように記されています。

 中産階級の農家に到りては勿論更に悲惨のものであつて、不幸にして段々産を失ひつゝあるものと見るが至當である。即ち自作農の多くは其生活を支ふるに由なく、一部の所有地を賣つて僅かに當面の急に具へ、自作兼小作農となり遂に自己所有の耕地全部を失ひ盡して、純然たる小作となり終るのである。政府が必死となつて自作農の奨励を計画しつゝある一方に、自作農は反つて小作農に落ちて行くのである。例へば内務省の統計によれば明治四十三年には全国農家の総戸数の三割三分四厘が自作農であつたものが、大正六年には、三割一分六厘に減少し、其反対に自作兼小作と小作農とが増へて居る。

 つまり、自作農が経済的に困窮して、どんどん小作農へと転落していく状況にあったのです。
『農村副業講座』 また、1926年(大正15年)刊行の『農村副業講座』の「発刊の趣旨」は、こう書き出されています。

 今や全く農村は疲弊困憊の極に達してゐる、?年男女は争ふて都會へ、都會へと集中して田園に残りて田畑を耕す者は、老人か子供、又は頭のなき馬鹿扱を受くる?年男女のみ、僅に残る相続者の農業を営むものは非常なる結婚難に襲はれ、昔日は農村男女は二十歳前後にて早婚といはれる迄に婚姻は容易なりしも現在は如何、さなきだに虚栄心の強き女は百姓はしたくない、農家の嫁は眞平だ、たとえ九尺二間の裏店に住む男でも都會の人でさえあれば喜んで行く、かくして農村の處女は農村?年の純潔なる手より逃れて、虚偽多き都會の男の胸に抱かれて行くのである。
 確乎たる信念を以つて、農村に働ける?年も三十近くなつても家庭を作る能はず、悶々として日を送りやがては我れも都會へとて農村を捨ててあこがれの都へと進んで行く状態である。
 嗚呼、農村をこのまゝに放任せんか、其の極遂に破滅あるのみ、農村の興廢は国家の興隆に關する重大問題なり。

 上の文章を読むと、「さなきだに虚栄心の強き女は…」とか「かくして農村の處女は農村?年の純潔なる手より逃れて、虚偽多き都會の男の胸に抱かれて行く…」というところなど、あまりに描写が具体的すぎて、ひょっとしてここには何だか著者の個人的な思い入れが込められているのではないかと感じられるほどですが、いずれにせよ、大正期の農村は、非常な窮状にあったのです。

 このような農村の危機に対して、当時の政府は、農家の「副業」を奨励して収入を得させることで、何とか打開を図ろうとします。
 上の『農村副業講座』によれば、それは次のように説明されています。

 近時農村に對し副業を奨励せらるゝことが盛んとなり、政府は大正十四年度に於て農村振興の経費として三十四萬円を此の方面に仕向け農林省に於ても農務局に副業課を再興して、専ら副業の奨励に當らしむることとなつて來た。

 すなわち政府は、1925年(大正14年)に「副業奨励金交付ニ關スル規則」を公布し、農家が副業を興すために様々な形で奨励金を交付することとし、例えば「副業ニ關スル参考品並副業用種苗及器具機械ノ購入及配付」に際しても、産業組合あるいは法人は、国から奨励金を受け取ることができるようになったのです。
 このような政策誘導によって、農家の副業となるような物を扱う業界に、かなりのお金が流れ込んでくることになったのは、想像に難くありません。
 ここでご紹介した『農村副業講座』という本からして、下のように養蜂業者や球根販売業者の広告が入っていて、何かよい副業はないかと探している農家や関係者に、誘いをかけています。

 養蜂広告   球根広告

 そして、この本の目次を見ると、コンニャク、輸出向け生姜、球根花卉、テッポウユリ、除虫菊、養鯉など21種もの副業が並べられているのですが、その冒頭を飾っているのが「シャンピニオンの栽培」、13番目に登場するのが「養兎の副業経営法」なのです。
 また、「有利有望なる球根花卉栽培法に付いて」の章を見ると、栽培を推奨する花の種類については、次のように書かれています。

 農家の副業として栽培し易く且つ蕃殖率の強く然も世人の嗜好に適し需要多大にして目下我が國の園藝界に最も多く取引せらるゝもの左の如し。
 チユリツプ、ヒヤシンス、アネモネ、ナーツシサス、クロツカス、イキシヤ、花百合、グラジオラス、アイリス、フリージヤ、斑入カラ、アマリリス、スバラキシス、ダリヤ、リウゴンシス、水仙、シクラメン等。
 以上の中最も多く取引せらるゝものはダーリヤ、チユリツプ、グラジオラスを第一とす。(強調は引用者)

 すなわち、この頃に「グラジオラス」は、農家の副業として有望とされる球根花卉の、三大品種の一つだったわけです。

 これでやっと、賢治の「〔何をやっても間に合はない〕」に登場する、兎、グラヂオラス、マッシュルームの三者が、出揃いました。
 すなわち、賢治がこの詩を書いた当時において、この三つの品目は、生活の苦しい農家が少しでも収入を増やそうと取り組んでいた副業の、典型的な対象だったわけです。賢治が言うところの「ありふれた仲間」は、何とか暮らしを楽にできないかという望みを託し、これら農村副業の典型的事業に、手を出してみたというわけです。

 しかし賢治は、作品の中でこれらを一つ一つ具体的に描写しては、そのどれに対しても、「さうしてそれも間に合はない」「何をやっても間に合はない」と、絶望的な答を出します。
 賢治の目に映っていた農村の状況は、いったいどんなものだったのでしょうか。

 その現実は、賢治自身の作品や、その他の様々な資料によって推し量ることができるでしょうが、とくに「農家副業」という分野の実情について、その一端を垣間見せてくれると思われる資料が目に付きました。
 1930年(昭和5年)11月29日付「大阪朝日新聞」の論説の一部を、下に引用してみます。

儲からぬ農家副業  (財界六感)

農村疲弊の対策として、盛んに副業が奨励されたものだ。そして今度の米繭の暴落に際會しても、他の副業収入によつてその苦痛を緩和し得たものがないではない。
                    ◇
しかし全國的にこれを通視すれば、當局の熱心なる奨励指導に拘らず、副業に失敗して却って苦しんでゐるものゝ方が遙かに多い。これは要するに、その指導奨励なるものが技術的方面にのみ限られ、副業品の販路すなわち市場関係の研究に缺くるところがあつたからである。
                    ◇
何々が有利だとなると、吾れも吾れもと同じ副業に手を伸ばす、そして當局者は、たゞ統計報告書において、その産額の殖えたことを無上の誇りとし、その製品が賣れやうと賣れまいと殆ど風馬牛の感がある。だから無謀な販賣競争が始まり、結局共倒れとなつて、注ぎ込んだ金の回収すら出來ずに借金の上塗りをするのが落ちである。
                    ◇
大體において、副業品の價格は、商人殊に仲買人の言ひなり次第だといつてよい。従つて仲買人の口銭なるものは、常に農民の肥料代、原料代、手間賃等を侵蝕することによつて高められてゐる。生産費を割つた副業の永續せぬのは当然すぎるほどの当然ではないか。
                    ◇
しかしそれといふのも、元を質せば、農家の資力が薄弱で、仲買人の付け値に對し、頑張り通し得ないことゝ、さらに農民が市場の情勢に盲目で、副業を有利に傾向づけるポイントを摘み得ないことゝが、その主因をなしてゐる。だからドゞの詰りは、矢張り農民自身が財的にも智的にもその地位を高めることに成功するより外に途はなく、さもなくば副業が却つて農家の重荷であるという状態から、容易に脱することは出來まいと思はれる。
                    ◇
共同販賣や共同調査等の組織が漸次改善されつゝあるとはいふものゝ、全体を通じて見れば、まだ遺憾の点が夥しくある。殊に資力に薄い農民が、蔬菜類や果實類を市街地に売歩いてゐるのをよく見受けるが、彼等は、帰りがけには必ず賣れ残りを殆ど只同様に捨賣りするのが例である。そのために、その次ぎからは、その捨賣値でなければ売れず、自ら好んで墓穴を掘るの愚を敢てしてゐる。
(以下略)

 厳しく悲観的な指摘ですが、実際にはこれが、政府の副業奨励策の結果だったのかもしれません。最後の部分などは、羅須地人協会時代の賢治が、球根花卉をリヤカーに積んで町へ売りに行き、売れ残った花を無料で配っていたというエピソードも、連想させます。
 賢治自身、何とかして農民の暮らしを改善しようといろいろ考えたでしょうし、自らも試行錯誤を行いました。そして、「ポラーノの広場」の終章では、ファゼーロたちの産業組合が、ハムや皮製品や醋酸やオートミール製造などの副業経営において、成功している様子が描かれています。

 しかし現実の賢治が、近所の農家が懸命に兎やグラジオラスやマッシュルームを育てている様子を見た上で、結局その口から漏れた言葉が「何をやっても間に合はない」だったとすれば、それはとても辛いことです。
 賢治もさぞ、辛かったことでしょう。

大阪朝日新聞1930年11月29日「財界六感」
「大阪朝日新聞」1930年11月29日「財界六感」

近刊『賢治学【第1輯】』

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 岩手大学宮澤賢治センターから近く刊行される、『賢治学【第1輯】』が、手元に届きました。発売日は6月10日ということで、アマゾンからも予約注文が可能となっています。

賢治学第1輯: 特集 岩手大学と宮澤賢治 賢治学第1輯: 特集 岩手大学と宮澤賢治
岩手大学宮澤賢治センター

東海大学出版部 2014-06-10
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 目次は、以下のとおりです。

『賢治学』創刊に寄せて (藤井克己)
『賢治学』発刊にあたって (山本昭彦)

特集 岩手大学と宮澤賢治
  賢治学のスタートは賢治さんの「よーさん」と同等 (鈴木幸一)
  『盛岡附近地質調査報文』―宮澤賢治と盛岡附近地質調査
  (亀井 茂)
  旧盛岡高等農林学校本館(現農学部附属農業教育資料館)と
  宮澤賢治 (若尾紀夫)
  盛岡高等農林学校における賢治の文芸的営みのほとんどは
  「短歌」であった―『宮澤賢治全短歌鑑賞』を展望しながら
  (望月善次)
  「アザリアの咲くとき」展をふりかえって (岡田幸助)

コラム それぞれの賢治
  イーハトーブ温泉学拾遺―大沢温泉 (岡村民夫)
  「茶話会」と「賢治と音楽を楽しむ会」を担当して (姉歯武司)
  強さと感謝について (上野火山)
  盛岡高等農林学校のおいしそうなものたち (中野由貴)
  三陸沿岸の賢治詩碑群 (浜垣誠司)

宮澤賢治センター通信より
  尾形亀之助と宮澤賢治 (吉田美和子)
  賢治と震災 (牛崎敏哉)
  草野心平・黄瀛と宮沢賢治 (佐藤竜一)
  宮澤賢治『春と修羅』の恋について、続報 (澤口たまみ)

フォーラム「賢治学」
  羅須地人協会と新しき村―主としてその差違をめぐって
  (吉村悠介)
  『銀河鉄道の夜』の天路歴程とホーソン『天国鉄道』―ジョバンニ
  の「乳の道」
(松元季久代)
  宮澤賢治 影への射程―アンデルセン童話という回路をめぐって
  (木村直弘)
  『賢治とイーハトーブの「豊饒学」』(大河書房) (塩谷昌弘)

編集後記 (編集子一同)


 目次に並ぶ著者の方々のお名前は、これまでのオーソドックスな賢治研究アンソロジーで見慣れたものとは、やや趣が異なっていますね。そしてその中身も、ひと味違った感じです。
 「被災した街の復興には、広場の機能が不可欠だと言われている」という文章に始まる「編集後記」も、心に沁みるものでした。

 この『賢治学』は、そのような「広場」の機能を果たすものとして、これから毎年1冊ずつ刊行される予定だということで、巻末には「投稿規定」も掲載されています。
 大学というものをめぐる昨今の情勢から、岩手大学宮澤賢治センターの運営にもいろいろとご苦労があったということですが、この『賢治学』が、「…そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついて…」という広場へと発展していくことを、お祈りしたいと思います。

福島の獣医千葉喜一郎氏

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 1932年(昭和6年)4月19日付けで、病臥中の賢治から東北砕石工場長の鈴木東蔵にあてた書簡412に、次のような一節があります。

次に一昨日福島市畜産家獣医千葉喜一郎氏村松博士のご招介にて御来訪有之、工場産の搗粉と房州砂及三春産のものとにて家畜に飼養試験を農林省委託として大規模に行ひ、工場産のもの殆んど薬用炭酸石灰に劣らざる良成績を挙げ他地産のもの到底及ばざるを確認したるを以て七月中には農林省佐藤博士と共名にて同省報告に工場名を明記して之を発表すべしとのこと御報有之且つ色の黝き点も何等差支なき由申され候。就ては此の際他品との競争最至難なる福島栃木新潟方面の一手販売を引き受け度く貴下に面談致し度とのことなりしも御上京中の由申候処いづれ手紙にて交渉致べくとて盛岡を経て帰県せられ候。同氏の言には販路は充分に有之たゞ、価格の点福島市渡し十三貫四十三銭(房州砂の価格)まで工夫なきやとの事に有之御採算の上御返事願上候。粒径の点は或ひは従来のものより稍々大なるも宜しかるべく且つ牧草地用及水田用のものより微粒風撰採取しても差支無之と存じ候間御考慮願上候。(強調は引用者)

 また、翌1933年(昭和8年)2月15日付けでやはり鈴木東蔵へあてた書簡453aには、次のような一節があります。

拝啓 十四日発の御葉書拝見仕候。
冊子への当座の資料、四五別便にて送上候間、最后の項に福島市獣医の方の氏名御挿入の上、各項適宜御取捨被成下度、今回は本文へは全く手を附けず置き度存候。亦冊子とせず一枚刷ならば、仰せの通り全く従前通りのものも宜敷と存候。冊子印刷に一ヶ月以上間も有之候はゞ、本文全部時宜に適する様書き直し度存候。(強調は引用者)

 1931年(昭和6年)9月、重いカバンを持って東京までセールスに出かけて病に倒れ、その後は花巻で病床に就きながらも、翌年、翌々年と、死の直前まで賢治が東北砕石工場のことを気に懸けて、様々なプランを考え続けていたことを物語る書簡です。

 さて、この書簡412に、突然花巻の宮澤家を来訪し、東北砕石工場産の石灰搗粉について非常に好意的な評価を伝えてくれた人物として、「福島市畜産家獣医千葉喜一郎氏」が登場します。
 そして賢治は、翌年に工場の新たな宣伝パンフレットを作成する過程においても、専門家の立場から搗粉を評価してくれたこの「福島市獣医」の氏名も掲載するよう、鈴木東蔵に勧めています。

 なにせ、東北砕石工場で生産した石灰搗粉を、当時まで搗粉の大半を占めていた「房州砂」や、千葉氏にとっては地元である福島県三春町産の石灰搗粉と比較して、「他地産のもの到底及ばざるを確認し」と報告してくれたのですから、賢治としてはとても嬉しかったに違いありません。
 さらに千葉氏は、単にこの実験を行ったにとどまらず、その結果を農林省の報告に「工場名を明記して」発表してくれる上に、「福島栃木新潟方面の一手販売を引き受け度く…」と申し出てくれたというのです。東北砕石工場としてはまだほとんどセールス展開ができていなかった地域に、一気に強力な足場ができそうな状況になったわけですから、賢治にとっても鈴木東蔵にとっても、こんな有り難い話はなかったでしょう。

 それにしても、福島市で獣医院を営む千葉喜一郎氏は、福島県内にも三春町をはじめ石灰岩の産地はいろいろあったにもかかわらず、そのような地元の利害を離れて、わざわざ岩手県にある東北砕石工場の製品の一手販売を引き受けようと考えたわけです。いったい千葉氏は何のために、このような思い切った申し出をしてこられたのでしょうか。
 その理由として考えられることの一つとしては、とにかく畜産家によりよい製品、科学的効果のある製品を届けたい、そして人々の仕事を実りあるものにしたいという、獣医師としての千葉氏の思いがあったのかもしれません。そうであればこれは、病を押して東北砕石工場の技師になって奔走した賢治の思いにも、通ずるものがあります。
 もう一つ考えられることとしては、千葉氏がはるばる花巻まで賢治を訪ねてきた行動にも表れているのではないかと思うのですが、千葉氏はこの東北砕石工場の技師をしている宮澤賢治という男が、盛岡高等農林学校の先輩であることに、何らかの親近感をい抱いていたからかもしれません。
 東北砕石工場製造の石灰搗粉の販売交渉をしたいのであれば、陸中松川にある工場本社に責任者を訪ねる方が話が早いはずですし、またその方が福島から行くにも距離は近いのです。それなのに、わざわざ花巻まで「嘱託技師」を訪ねて来たのは、まず何よりも賢治という人に会ってみたかったのではないでしょうか。
 宮澤賢治という技師が、盛岡高等農林学校出身であるということを調べる過程では、石灰肥料に関する斬新な広告文を起草して、科学的見地から広報しようとする賢治の仕事ぶりについて知る機会もあったでしょうし、前述のように千葉氏にも農業に対して同様の思いがあったとすれば、そこに賢治の姿勢への共感も、湧いてきたのかもしれません。

千葉喜一郎 千葉喜一郎氏は、1902年(明治35年)に福島に生まれたということですから、賢治の6歳年下ということになります。福島中学から盛岡高等農林学校畜産科に進み、福島市内で家畜医院を開業した後も、旺盛な研究活動を続けました。
 千葉喜一郎氏の右の写真は、菅野俊之著『ふくしまと文豪たち』から引用させていただいたものですが、菅野氏は、宮沢賢治学会イーハトーブセンター会報第38号に掲載されている「福島市の獣医師千葉喜一郎について」という文章や、上記の『ふくしまと文豪たち』において、千葉氏の経歴について詳しく調査した結果を、まとめておられます。
 それによれば、千葉喜一郎氏は福島県獣医師会会長、日本獣医師会副会長も務め、畜産業の振興と公衆衛生の発展に寄与した業績により、1967年(昭和42年)に藍綬褒章を、1974年(昭和49年)に勲四等瑞宝章を受章したということで、その社会的貢献の大きさがうかがえます。

 千葉喜一郎氏の獣医学における研究業績を調べてみると、国会図書館に所蔵されている文献の中で、千葉氏が筆頭著者となっている論文としては、以下のものがありました。

  1. 馬の骨軟症の實驗的研究. 中央獣医会雑誌43(10); 843-868, 1930
  2. 馬の左右睾丸重量の統計的觀察. 中央獣医会雑誌44(4); 269-282, 1931
  3. 馬の骨軟症に關する研究(第二). 中央獣医会雑誌44(12); 947-969, 1931
  4. 昆布ノ「ヴィタミン」ト其能力ニ就テ. 日新醫學1(1); 1584-, 1936
  5. 簗川病に就いて. 日本馬事会雑誌1(2); 22-25, 1942
  6. 本邦に發する馬の所謂骨軟症骨質の組織學的研究. 臨床獣医学新報19(2); 40-44, 1943
  7. 馬の骨軟症の實驗的研究 第四. 盛岡高農同窓会学術彙報7; 1-10, 1943
  8. 馬匹無保定去勢手術に就て. 日本獣医師会学術彙報13; 1-18, 1943
  9. 砒素系化合物の探究と生物化学的研究. 日本獣医師会雑誌4(12); 418-419, 1951

 上記の 6.が、千葉氏の博士論文として北海道帝国大学に提出され、獣医学博士号を授与されたものですが、この論文も含めて、1.3.6.7.は、馬の「骨軟症」というカルシウム代謝障害をテーマとした研究であり、特にこの疾患が、若い頃から千葉氏の専門的研究対象であったことをうかがわせます。
 今やそのことを念頭に置けば、千葉氏が石灰搗粉に特別な関心を示して、わざわざ賢治のところまで訪ねてきた事情も理解できます。
 炭酸石灰=CaCO3 を効率的に家畜に摂取させてカルシウムを補充することができれば、「骨軟症」を改善させることもできるのです。

 たとえば、上記の 7.(下写真は国会図書館近代デジタルライブラリーより)において、千葉氏は中等症から重症の「骨軟症」に罹患した12頭の馬に対して、「石灰藁」(消石灰の懸濁液で稲藁を煮沸したもの)を120日間食べさせるという実験を1929年から1931年にかけて行ったということです。その結果、どの馬においても「骨軟症」の症状はほとんど消失し、顕著な回復を見せたというのです。

馬の骨軟症の実験的研究 第四

 馬の「骨軟症」の治療として、カルシウムを摂取させることが有効であることがわかれば、あとはどのような形でそれを与えればよいか、ということが実際的な問題となります。上の実験で使われた「石灰藁」という家畜用飼料は、当時新たに開発されたもので、その効果の点では大変優れていましたが、消石灰の価格や作成の手間に難点があり、これがもしもより安価な石灰岩抹でも有効だということになれば、畜産農家に広く普及させる上で、かなりのメリットがありえます。
 千葉喜一郎氏が、福島県三春町産や東北砕石工場の石灰搗粉を、家畜に与える比較試験を行ったということの目的は、おそらくここにあるのでしょう。
 そして、当時まだ30歳になるかならないかという少壮の研究者であった千葉氏が、この「飼養試験を農林省委託として大規模に行ひ」ということができたのは、この分野に関しては、若くとも第一人者として農林省からも認められていたからなのでしょう。

 ・・・と、ここまで長々と書いてきましたが、実は今回の記事を書こうとした私の最大の関心は、千葉氏が「七月中には農林省佐藤博士と共名にて同省報告に工場名を明記して之を発表すべし」と、賢治に約束したこの「農林省報告」を、何とかして見つけられないかということにありました。
 戦前の「帝国図書館」として、政府の刊行物の大半を所蔵している国会図書館は、こういう文献を持っている可能性が最も高い場所ですから、その蔵書をWebからあれこれ検索してみたのですが、なかなかそのような文献は見つかりません。
 そうこうするうちに、検索対象を国会図書館に限らず、全国の公共図書館として探していると、ついにそれらしき本にめぐり会いました。

 それは、「農林省獣疫調査所」が1932年(昭和7年)10月に刊行している、『骨軟症の予防に就て』という本で、岩手県立図書館が所蔵していました。
 1932年〜1933年に農林省が刊行した文献627件を通覧した中で、今回のテーマに関わるようなものは他に見当たらず、また千葉氏が家畜に石灰搗粉を給与した目的が「骨軟症」対策であったことは上にも見たとおりですから、おそらくこの本で間違いはないのではないかと思っています。

 というわけで、いずれ盛岡を訪ねる機会があれば、岩手県立図書館に寄って、この『骨軟症の予防に就て』を閲覧してみたいと思います。
 千葉氏が言ったとおり、「東北砕石工場」の工場名は「明記」されているでしょうか。あるいは、1932年4月17日に千葉氏が賢治を訪ねた際に話し合った内容まで触れられていたらスゴいのですが、さすがに政府刊行物にそこまで期待するのは無理でしょうね。
 この本が、千葉氏の母校のある岩手県の図書館に全国で唯一所蔵されていたのは、千葉氏が寄贈したなど何かの理由があるのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。

 なお余談ながら、今も千葉喜一郎氏のご子孫は獣医をしておられて、福島市内で「千葉小動物クリニック」を開いておられるということです。

鏑木蓮『イーハトーブ探偵』

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                   大正十一年一月六日金曜日

 映画館を出たとき、また雪が降り出した。すでに積雪は一間は超えていただろう。ただ花陽館の前もそうだけれど、町の大きな通りは雪かきが済み、道端に寄せられていて歩きづらさはない。
 正月休みの夕刻、藤原嘉藤治は、小岩井から帰ったばかりの友人、宮澤賢治と並んで歩いた。ケンジは映画館に入るまでは、小岩井のきらきらする雪の中を移動したことを熱に浮かさているように、一人で喋り続けていた。ところが映画を見終わると今度は急に黙ってしまった。     (「ながれたりげにながれたり」冒頭より)

 上記は、鏑木蓮著『イーハトーブ探偵 賢治の推理手帳 I』の冒頭部です。

イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫) イーハトーブ探偵 ながれたりげにながれたり: 賢治の推理手帳I (光文社文庫)
鏑木 蓮

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 この本は、宮澤賢治と親友の藤原嘉藤治が、ちょうどホームズとワトソンのように、格好のコンビを組んでいろいろな難事件を解決していくという、痛快な推理短編集です。上記のように表紙絵には、この「ケンジ」と「カトジ」の二人がイギリス海岸を歩く姿が描かれ、賢治ファンとしては中を開く前からワクワクしてしまいます。
 実際に賢治は、広汎な自然科学的・博物学的知識と独特の頭脳を持っていましたから、現場の遺留品の断片からシャーロック・ホームズのように推理を働かせて事件を見通すという役柄には、まさにうってつけの感があります。
 それに、過去の名作において造型された「名探偵」というのは、シャーロック・ホームズにしてもエルキュール・ポアロにしても金田一耕助にしても、どこか一般常識を超越した「変人」のようなところがありましたが、われらが宮澤賢治の、その生前から地元では名高かった「変人」ぶりも、本シリーズの探偵キャラクターに一種のカリスマ性を帯びさせる上で、最高のスパイスとなっています。
 そして、放っておいたらどっかへ飛んでいきそうなこの「ケンジ」探偵を、しっかりとつなぎ止めつつ常識人として気配りをするのが、コンビ相方の親友「カトジ」なのです。

 さて、この一冊には、下の四篇が収められています。

ながれたりげにながれたり
マコトノ草ノ種マケリ
かれ草の雪とけたれば
馬が一疋

 一見していただいたらわかるとおり、これらはいずれも賢治の詩の題名に基づいており、それぞれの賢治作品の世界が、各篇の背景となる雰囲気を形づくっています。
 そして、各篇の舞台となっているのは、冬の大沢温泉であったり、南部藩と伊達藩の藩境にある「南部曲り家」であったり、明治の遺構「旧岩谷堂町役場」であったり、下鍋倉の水車小屋であったり、「イーハトーブ」ならではのスポットが選ばれていますし、それぞれに事件の背景をなしているのは、貧困と「口減らし」、結核による死、密造酒と税務官吏による取締り、農村の困窮と軍馬買い上げなど、当時の岩手県の切実な問題を反映しています。
 また、これらの作品を純粋に推理小説として読むと、各篇ともに、いったいどのようにして犯行が為されたのか、まったくわからないようなミステリーが構築されていて、その仕掛けをケンジが解明していくとともに、想像もつかなかったような大がかりなトリックが姿を現わすという形になっています。
 作者の、並々ならぬ意欲が表れている作品集だと思います。

 それより何より、賢治ファンとしてこの「イーハトーブ探偵」シリーズに限りない魅力を感じるのは、その作品世界の意味深い構成にあります。
 冒頭に引用させていただいた箇所の「大正十一年一月六日金曜日」にも表れているように、各作品にはその年月日が記されています。大正11年1月6日というのは、賢治の詩集『春と修羅』の冒頭および二番目の作品、「屈折率」と「くらかけの雪」がスケッチされた日であり、引用箇所にもあるとおり、この日に賢治は雪の小岩井農場へ出かけてきたのです。

 つまり、この「イーハトーブ探偵」シリーズは、『春と修羅』の世界の開始とともに幕を開け、各ミステリーはそれぞれの時期の賢治の実生活とともに、進行していくのです。
 すなわち、「ながれたりげにながれたり」は大正11年1月6日から10日、「マコトノ草ノ種マケリ」は5月3日から7日、「かれ草の雪とけたれば」は8月15日、「馬が一疋」は11月10日から19日の出来事という設定になっています。 そして、この時期の賢治の身辺において、最も切実な問題となっていたのは、何よりも妹トシの病状の深刻化でした。
 具体的にその内容を見てみましょう。

 最初の「ながれたりげにながれたり」においては、登場人物の一人である花巻高等女学校の生徒に関連して、トシが以前に同校の教師をしていたものの、「体調を壊し」て退職したと、さらりと触れられるだけでした。
 それが「マコトノ草ノ種マケリ」では、ある人物の息子が肺病で夭折したという話題になり、嘉藤治は大変に気をつかいます。

「肺病で亡くなったのか・・・」
 ケンジは遠くを見る目をした。
「あっ僕としたことが、もしゃけね」
 ケンジは肺を病むトシのことを思い浮かべたにちがいなかった。

 次の、8月の「かれ草の雪とけたれば」になると、下のような場面が出てきます。

 しばらくは、花巻から豊沢川を越え移ろい行く車窓に目を遣る。
 ケンジはまばゆい真夏の風景に目をしばたたかせ、奥歯を噛みしめていた。
「トシさんのあんべえは?」
「よくねえ。熱が下がらねえんだ。だば町中にいるよりは涼しいから」
「そうだな」
 いま通過した下根子の桜という場所に、宮澤家の別荘があった。ケンジの妹のトシが少し前から、病気療養している。

 そして、最後の「馬が一疋」では、容態はより深刻になっています。

 黒い帽子に黒いインバネス姿のケンジは、うつむき加減で風を受けながら、
「ゆんべ、トシがまた高熱を出したのす」
とぽつりと言った。
「それはことだなっす。側にいてあげてくなんせ、ケンさん」
 カトジは事件に引っ張り出したことを詫びた。
「食も細くなる一方で・・・俺は見てるのも辛い」
「それは・・・辛いな」
言葉がなかった。
「熱に浮かされながらも、兄さんは人の役に立ってけろって」
 ケンジの言葉が詰まる。

 この作品終わりの11月19日には、トシの容態が急変したために、彼女を下根子の別宅から豊沢町の実家に移すことになり、ケンジは事件の最後の現場に立ち会うことができず、カトジは一人で、花巻西郊の草井山に登り、顛末を見届けます。
 そして作品は、次のように締めくくられます。

 カトジは昨夜のケンジの言葉を思い出しながら、坂道の落ち葉を踏みしめる。やがて集落の家々から煮炊きの細い煙が見えてきた。
 ケンさんは多くの人の役に立ったのす。だから仏様はトシさんを見捨てるようなことはしねえ。きっと熱は下がる。必ずよぐなる、と心の中で祈った。

 つまりこの物語集は、トシの病気を見えない背景として、ケンジとカトジの友情を描いたものでもあるのです。

 今回の「賢治の推理手帳 I」が、実際のトシの死の8日前で終わっていることからすると、次の「賢治の推理手帳 II」は、トシの死後から始まるのかもしれません。あるいは何らかの仕方で、永訣の朝を迎えた賢治が描かれるのかもしれません。
 いずれにしても、私としては続篇を心から待ち望む、「賢治の推理手帳」です。 巻末の杉浦静さんによる「解説」も、賢治自身の人柄や作品、当時の岩手県の社会状況に関して要を得た説明をして下さって、この作品の奥行きをさらに広げてくれています。

千原英喜作曲『永訣の朝』初演コンサート

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 来たる7月6日(日)に、大阪のシンフォニーホールにおいて、千原英喜氏の新作合唱曲『永訣の朝』の初演が行われます。(下のチラシ画像はクリックすると別窓で拡大表示されます)

豊中混声合唱団第54回定期演奏会

 この『永訣の朝』は、大阪府豊中市を中心に活動している「豊中混声合唱団」が、本年度定期演奏会のために委嘱した作品だということで、上掲チラシ裏には、曲について下記のような説明が付けられています。

■ 永訣の朝
 豊中混声の本年度委嘱初演作品となります。妹トシの死を悼んだ挽歌として、宮澤賢治の作品の中でも取り分け愛されている「永訣の朝」。
 内省的かつ深い悲しみと愛、祈りに満ちた賢治のことばたちは、千原英喜先生の手腕により、全宇宙的な広がりを持つ音作品へと遷移していきます。ひとりでも多くの方にご拝聴いただきたい、ア・カペラによる心の絶唱。名作の誕生にお立ち会いください。

 千原英喜氏と言えばこれまでにも、『混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ』、『児童・女声合唱組曲 ちゃんがちゃがうまこ』、『混声合唱組曲 月天子』「宮沢賢治の最後の手紙」など、賢治のテクストをもとにして、数々の素晴らしい合唱曲を作ってこられました。私たちが一昨年12月に行った「第4回イーハトーブ・プロジェクトin京都」においても、その中から「雨ニモマケズ」を取り上げさせていただきました。
 何と言っても千原氏の合唱曲は、わかりやすく詩情豊かなメロディーやハーモニーと、現代的で斬新な感覚とが、絶妙に調和しているところが魅力です。賢治に対しても非常に造詣が深くていらっしゃって、詩の奥底まで見通すような視線も感じられます。

 そして今回、豊中混声合唱団の委嘱のおかげで、これら千原氏による賢治作品群の一環に、「永訣の朝」も加わることになったというわけです。どんな作品世界が造型されたのか、千原英喜ファンの私としても、今から楽しみです。
 2007年9月の『混声合唱とピアノのための組曲 雨ニモマケズ』の初演の際には、私もたまたま立ち会うことができて感動したのですが、今回も大阪まで聴きに行く予定にしています。

 下記のように、コンサートのプログラムは他にも盛り沢山で、豊中混声合唱団第54回定期演奏会のページから、メールにてチケットの申し込みや問い合わせができるということです。

豊中混声合唱団 第54回定期演奏会
  〜三善晃先生追悼・千原英喜先生委嘱初演〜

日時: 2014年7月6日(日) 午後3時開場 午後4時開演
場所: ザ・シンフォニーホール

プログラム:
■ 童声・混声合唱とピアノのための
  「葉っぱのフレディ」
  (作詞・作曲:三善晃)
■ 混声合唱曲「嫁ぐ娘に」
  (作詞:高田敏子 作曲:三善晃)
■ 「啄木短歌集」
  (作歌:石川啄木 作曲:高田三郎)
■ 「永訣の朝」(2014年度委嘱作品)
    永訣の朝 I
    永訣の朝 II
  (作詩:宮澤賢治 作曲:千原英喜)

 最後にご参考までに、これまで私が VOCALOID 等を用いて、千原英喜氏作曲の賢治作品を演奏したページを、挙げておきます。
 本物の合唱の歌声には比べるべくもありませんが、千原氏の曲がどのようなものか、とりあえず「試聴」していただくことはできるかと思います。

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