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福田パンの創業者・及川留吉

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 先月の連休に、花巻から普代村へ向かう途中、腹ごしらえのために盛岡で「福田パン本店」に寄りました。
 この「福田パン」とは、岩手県でおもにコッペパンの製造・販売を行っている会社なのですが、ここのパンは、長年にわたって盛岡近郊のほとんどの小中学校の給食に採用され、また多くの高校の購買部でも定番のメニューとなっていることから、盛岡を中心とした岩手の人々は、幾世代にもわたって子供の頃からずっとこのパンの味に親しんでおられるのです。そして今や福田パンは、「盛岡のソウルフード」とまで呼ばれるまでになっています。

 盛岡市長田町にあるその福田パンの本店は、下のようなちょっとメルヘン調の外観です。

福田パン本店入口

 レトロな木造の雰囲気や、正面の丸い時計は、昔の学校を連想させるものがありますが、実際これは、多くの盛岡市民が福田パンと出会った原体験の舞台である、「学校の校舎」をイメージして建てられているのだそうです。

 広い駐車場は、すでにほとんど満杯で、専属の誘導員も大忙しでしたが、扉を開けて店内に入ると、まだ祝日の朝8時すぎというのに、すでにホールを行列がぐるっと一周しています。
 そして正面の売り場窓口の上の「おしながき」と書かれたボード(黒板の色!)には、下写真のように、メニューの札がずらっと掛けられています。

福田パン「おしながき」

 「139円」の部には、「ピーナツ」「ピーナツバター」「ジャム」「ジャムバター」「バター」「まろやかチョコ」「ブルーベリークリーム」「バナナ」・・・の札が並び、さらに「159円」、「163円」と続いて、「276円」の「トンカツ」や「てりやきチキン」まで全部で50種類、さらにこれ以外にも「店舗限定メニュー」として、「ずんだあん」や「夏みかんマンゴージャム」などが、少なくとも7種類はありました。
 お客さんは、これらの具材の中から好きなものを選んで、「ご注文」と書かれた窓口で店員さんにオーダーし、その場で自分のコッペパンの中に、塗ったり挟んだりしてもらうのです。そして出来上がったパンを、隣の「お会計」の窓口で受け取ってお金を払う、というシステムになっています。
 具材は、2種類以上を組み合わせて注文することもできるので、そのバリエーションは物凄い数にのぼり、まさに「自分だけのオリジナル・コッペパン」を作ってもらうことができるという趣向です。
 「SUBWAY」という、細長いサンドイッチを供するアメリカ発祥のファストフードチェーン店がありますが、中身を自分好みにオーダーして詰めてもらうというところは、ちょうど同じような感じです。同じようなシステムながら、こちらは「SUBWAY」よりも20年以上早い、戦後まもなくから営業しているのです!

 「福田パン」のコッペパンは、私たちが給食で食べたものよりは一回り大きくて、皮も中身もふわふわとやわらかく、ほんのり甘い後味がして、本当に「優しい味」という感じです。
 福田パンの直営店としては、他に「矢巾店」と「厨川店」もありますが、この「本店」は最もメニューが豊富で、パンも焼きたてのものを搬入しているとあって、盛岡市民の皆さんが行列に並んででもここのパンを買いに来るというのは、よくわかる気がします。
 私も、もしも近所にこんなお店があったら、いつも買いに来ていることでしょう。

 ということで、盛岡に来られることがあれば、ぜひともお勧めしたい「福田パン」なのですが、当サイトとしてこのお店に注目する最大の理由は、1948年(昭和23年)に「福田パン」を創業した福田留吉という方が、実は宮澤賢治の農学校における元教え子だったということにあります。

 以下、この創業者と賢治の関わりについて、一通り見てみたいと思います。

 下のコピーは、『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」p.116より、稗貫農学校の大正12年卒業生名簿です。

稗貫農学校大正12年卒業生名簿

 赤枠が、「福田パン」創業者の福田留吉ですが、この方は卒業後に名字が変わっていて、在学中の旧姓は、括弧内に記されている「及川」でした。
 賢治が稗貫農学校に就職したのは大正10年(1921年)の12月で、そのすぐ後の大正11年3月にも、4か月だけ教えた生徒を卒業生として送り出していますが、まる1年を通して直接教え、いかにも「賢治らしい」独自の教育を存分に授けることができたのは、大正12年卒業のこの及川留吉の学年からだったわけです。同級生には、後に宮沢賢治記念会理事長等の役職に就き、賢治を顕彰する種々の活動にも尽力した、照井謹二?氏もいます。

 『証言 宮澤賢治先生』(佐藤成編,農文協)という本には、福田(及川)留吉からの聞き書きがかなり収録されているのですが、以下にその一部を引用してみます。

福田(及川)留吉  (私は「飢餓陣営」の特務曹長であります)
 稗貫農学校は、私どもが最初の入学生(大正十年)ですが、二年制の乙種農学校で、しかも新設校でしたので、学習用具などは皆無に等しく、養蚕実習用具のほかは、大八車一台、鍬数丁、顕微鏡は一基くらいあったでしょうか。フラスコもビーカーも見たことはありませんでしたが、宮沢先生の机の上には常に数冊の新刊書が積まれていました。私の見たのは、吉村清尚著『肥料学』、大工原銀太郎著『土壌学』、片山正夫著『化学本論』などでした。いずれも1000頁前後の大冊で、学界最高峰の本でしょう。私は無遠慮にも、「先生、この本を見る暇があるのですか」と尋ねました。先生は「なあに、一ヵ月に一冊は平らげるさ」と、にこにこしながら答えました。先生は英語の百科事典を使っていました。授業には分厚い原書を抱えてきての講義で午前中は普通、授業(座学)、午後は農場で実習、実習が終われば郊外に農作状況の観察、ときには生徒を帯同して出かけました。私どもは喜んで後に続き、心安く語り合いながら、課外指導を受けたものでした。(p.63-64)

 また及川留吉は、授業中に賢治から読み聞かせてもらった彼の童話に興味を引かれ、それを借りて書写したこともあったとのことです。

 先生は授業中、よく自分の書いた詩や童話を生徒たちに読んで聞かせました。
 五分か十分前といえば、生徒がちょうど授業に飽きてくる頃。先生は、このタイミングをうまくつかまえました。しかも聞かせてくれる童話が実に面白い。聞きっ放しにしておくのが惜しいので私は一度朗読のあとで、「先生、その原稿をちょっと貸してください」といって、そっくり借りたことがあります。それから、二晩か三晩かけて筆写しました。「貝の火」という童話で、四〇〇字詰めの原稿用紙三八枚の短編でしたが、筆写したのは大正十一年十一月、私が二年の秋のことでした。(p.66)

 この及川留吉の二年の秋9月、賢治が企画・脚本・演出をした初めての学校劇「飢餓陣営」が、農学校で上演されました。上のような文学への関心も与ってか、及川留吉は重要な配役である「特務曹長」を演じています。
 この「飢餓陣営」とは、食べ物がなく飢え死にしそうになっている兵隊たちのもとに、宴会から上機嫌で「バナナン大将」が帰還したところ、大将が身につけている肩章(エボレット)や勲章が、実はバナナやお菓子で出来ていたものですから、空腹に耐えかねた隊員たちは、これらの勲章を拝謁するふりをしながら、皆で食べてしまうというお話です。
 当初は「コミックオペレット」とも題されていたこの「歌物語」において、特務曹長と曹長は、バナナン大将の帰還を待ちわびながら、「もう一時半なのにどうしたのだらう・・・」という調子で交互に何度も歌を唄いますし、大将の勲章をもらい受ける場面では、特務曹長が巧妙な駆け引きで大将をおだてながら、次々と「お菓子」をはぎ取っていくという構成になっています。
 この「特務曹長」を演じた及川留吉には、相当の演技力と歌唱力が求められたことでしょう。

 そして、大将の勲章や肩章を全部食べてしまった後、自分たちの犯した罪の重さに愕然とした特務曹長と曹長は、二人ですべての罪を背負ってピストルで自決しようと覚悟し、「飢餓陣営のたそがれの中」という歌を唄います。

♪ 「飢餓陣営のたそがれの中」(mp3: クリックで再生)

飢餓陣営のたそがれの中
犯せる罪はいとも深し
あゝ夜のそらの青き火もて
われらがつみをきよめたまへ

マルトン原のかなしみのなか
ひかりはつちにうづもれぬ
あゝみめぐみのあめをくだし
われらがつみをゆるしたまへ

〔合唱〕 あゝみめぐみの雨をくだし
      われらがつみをゆるしたまへ

 この歌詞一番の、「飢餓陣営のたそがれの中・・・」という部分を切々と歌ったのが、及川留吉だったのです。

 さて、そんな風に、楽しく充実した学校生活を送ったであろう及川留吉ですが、年が明けると、卒業後の針路を考えるべき時期がやってきます。
 ここで再び、『証言 宮澤賢治先生』(農文協)から引用させていただきます。

 卒業も間近い大正十二年の二月上旬でした。授業もすんで、帰り仕度をして廊下に出た私を、先生は呼びとめました。何かと思い脱帽してペコンと頭をさげました。先生は「学校に宮野目村役場から、農業技術員を一人世話してくれとの依頼状が来たので、君を推薦しようかとも考えたが、君はあまり子どもっぽいので考えなおした。それより盛岡高等農林学校の助手になって、もっと勉強する気はないか」といわれました。その頃私は、とにかく農学を勉強し、少しでも多収穫の農業技術を身につけたいと、そればかりに没頭して、作物病理でも、肥料設計でも、地質土壌でも、農業に関する大事なことなら何でも先生方のお話は聞きもらすまいと一生懸命でしたから、先生のお話にはちょっと虚を突かれた感がしました。しかも「もっと勉強する気がないか」の言葉は、非常に魅力的に響いて私の脳裡に深く刻まれました。帰宅して、そのことを兄に話したら、兄は「それはたいへん有難いことだ。願ってもないことだ。ぜひ先生にお願いしろ」とのことで、次の日、早速先生にお願いしました。
 先生は、何遍も盛岡に出向かれて、高農の鏡校長や農芸化学部長、すなわち学校当局にご苦労なさって交渉してくださったに違いありません。このことに関してとくに銘記したいことは、先生は私のために、ご自分の時間、私費を費やして努力してくださったにもかかわらず、そのことの片鱗も、お顔にもお口にも表わしませんでした。そればかりでなく、私の赴任に際しては、懇ろにご教示をいただき、私のことを衷心から喜んで祝福してくれました。(p.65)

 「留吉」という名前から想像されるのは、彼はある程度の人数の兄弟の末っ子として生まれたのではないかということです。彼自身が継がなければならない家業や、耕さなければならない田畑はなく、卒業とともに、自らを養うための職を見つけなければならない立場だったのでしょう。
 賢治は、このような生徒に対しては、骨を折って就職を斡旋してやったようです。

 賢治の推薦によって及川留吉は、1923年(大正12年)4月に盛岡高等農林学校農芸化学部の実験助手として就職して、伊藤武男教授(専門は物理・物理化学・分析化学)の実験室に所属し、学生教育や研究を手伝いながら、化学分析技術や農芸化学の勉強を始めます。またその後、村松舜祐教授のもとで、納豆に関する研究も行ったということです。
 この盛岡高等農林学校在職中の及川留吉に対して、賢治が出した書簡が、現在2通残されています。いずれも、『新校本全集』第十五巻(書簡)の刊行後に発見されたので、第十六巻(下)の「補遺・伝記資料篇」に収録されています。

 一つは、1923年(大正12年)4月14日付けで、まだ就職してまもない及川留吉にあてたもの。

書簡199b
たびたびのお便りをありがたう。今度はまあ恰度いゝあんばいで寔に結構でした。村松先生もお悦びのやうですしどうかしっかりやって下さい。鈴木君は東京のある医師の家で書生をしながら夜学に通ってゐます。沢田、小田島両君は更木の耕地整理にはいりました。みんなお互からだを大切にしてどこまでも本気にやって行きませう。先頃はまた兄さんがわざわざ学校まで入らして結構なお品物を戴き本統に恐縮です。こちらへ帰ってもし暇のあったときはどうか学校なり私の家へなり寄って下さい。今ごろになってまた雪が降ったりして大へん困ります。学校では苗代は四畝作りましたが雪の為にまで馬肥もかけられず折角天気になるのを待ってゐます。
 どうか身体を大事にして下さい。
    大正十二年四月十四日
                                    宮沢賢治
及川留吉様

 留吉も何度も賢治に手紙を書き、高農就職を勧めたその兄も、お礼の品を持って賢治を訪ねたようですね。教え子のことを思う賢治の気持ちが、文面から伝わってきます。
 あともう一通は、年は不明ながら、筆跡から「1925年(大正14年)」と推定されているもの。

書簡199c
〔冒頭欠〕ませうか折角ご自愛を祈ります。
かくかうが来たと思ってゐるうちに早くも収穫季節になりましたどうか辛抱してしっかりやってください
      十月五日
                                    宮沢賢治
及川留吉様

 ところで、この二つの書簡にはさまれた1923年(大正12年)の12月、郷里に帰省する途中で及川留吉は、賢治を訪ねて一枚の写真を贈呈しました。その経緯について、やはり『証言 宮澤賢治先生』(農文協)からの引用によって見てみます。

 私は高農農芸化学科の助手になって半年ぐらいして、やっと実験室の様子もわかりかけた頃、偶然写真屋が来ましたので、実験台をバックに写真を撮ってもらいました。ひとっぱしのラボラント気取りで撮った写真を、私はこうして分析の手ほどきを受けていますという実況を、子ども心に先生に見てもらいたかったのです。
 十二月の下旬になって、冬期休暇に入ったので帰省しましたが、その途路、その写真を一枚お上げしました。そのとき先生は、お喜びの表情で「よく撮れた写真だ、記念だ、私も後で撮って送るから」とのお話でした。冬休みもすんで、私は実験室で働いていましたら、しばらくたって一通の郵便物が届き、それが先生からの署名入り写真でした。私のために、この写真をわざわざお撮りくださったかと思うと本当に感激でした。(p.209)

 この時、賢治が及川留吉に贈った写真が、有名な下のものです。(『新校本全集』第十四巻「雑纂」p.294〔写真献辞署名等 五〕」より)

 農民シャツの写真

 今日、私たちが賢治のこの肖像写真を見られるのも、及川留吉が自分の写真を賢治に贈ったおかげだったわけですね。

 さて、このようにして賢治との交流も続けながら、高等農林学校の実験助手の仕事を続けていた及川留吉ですが、1928年(昭和3年)春に、高農を退職し、大阪に赴任します。
 この辺の状況も含めて、『新校本全集』第十六巻(下)「補遺・伝記資料篇」の「受信人索引(付・略歴)には、次のように書かれています。

福田留吉(ふくだ・とめきち)
[199b,199c]
明39・7・4-昭59・12・24
旧姓及川。出身は稗貫郡湯本村小瀬川(現花巻市)。大正10・4稗貫農学校入学、12・3卒業。4月より盛岡高等農林学校農芸化学部助手となり、昭3・3まで勤務。同月大阪のマルキイースト菌研究所研究部に勤務。昭6・3・16婚姻により福田姓となる。戦後盛岡に戻り、製パン業に従事した。(p.19)

 これによると、1928年(昭和3年)3月に高農を退職した及川は、同じ月のうちに大阪の「マルキイースト菌研究所」に勤務したことになっています。
 一方、佐藤成著『宮沢賢治の五十二箇月―教師としての賢治像―』(川嶋印刷)には、次のような記載があります。

 このように賢治は卒業生の世話をよく見、高農の助手への道を開いた。最初福田留吉を無機化学の伊藤教授の助手に推せんし化学分析技術、農芸化学の勉強をさせた。福田は伊藤教授や村松部長(大豆の研究で農学博士となる。納豆の権威で納豆博士といわれた。)の指導を受けて数年の後村松部長の推せんによって高農の卒業生と同じように大阪市立衛生研究所の研究員、次に京都宇治の酵母製造所に勤務、パンの腐敗菌や酵母の研究を続けた。(p.121)

 こちらによれば、彼はまず「大阪市立衛生研究所」に勤めた後、京都宇治の「酵母製造所」に勤務したというのです。
 どちらも信頼できる文献と思われるだけに、判断が難しいところですが、いろいろ調べてみると、後者に出てくる「京都宇治の酵母製造所」というのは、大阪に本社があった「マルキ号パン株式会社」が宇治に建設した、「マルキイースト工場」だったと推測されるのです。
 すなわち、この工場について『パンの明治百年史』(パンの明治百年史刊行会)という本には、下のように記されています。

 昭和二年。大阪のマルキ号経営にかかる、京都市の郊外宇治川畔に建設の、マルキイースト工場から、我国最初のイーストが生産された。知識の不足と設備の不完全に因って、純粋精強なイーストではあり得なかったが、とにかくイーストの科学的培養に成果を得た"国産イースト第一号"であって、これが大阪の製パン業者の手で作り出された事実は、我国製パン史に明記されなければならぬ。(p.750)

 『新校本全集』には、「大阪のマルキイースト菌研究所」と書かれ、『宮沢賢治の五十二箇月』には「京都宇治の酵母製造所」と書かれていますが、実は両者は上記のように重なり合っているのだと思います。
 及川留吉は、まず「大阪のマルキ号パン会社」に入ってから、次いでその運営する宇治の「マルキイ−スト工場」に移ったのか、それとも直接宇治の「マルキイースト工場」に入ったのかはわかりませんが、いずれにせよ高等農林学校で分析化学の手技を身につけ、また納豆菌の培養にも携わっていた知識と経験を生かして、マルキ号パン会社の研究部門に勤務していたということかと推測します。
 またこれは彼自身にとっても、イースト菌の培養とパン製造の知識と経験を得る機会となり、後の「福田パン」創業へと連なる仕事だったでしょう。
 続いて『新校本全集』の略歴によれば、及川留吉が結婚して福田姓となったのは、1931年(昭和6年)3月のことです。大阪か宇治かはともかく関西で仕事をしていた時期のことですが、お相手は関西の方だったのでしょうか?それとも故郷岩手の方だったのでしょうか?

 ところで、福田留吉が勤めていた「マルキ号パン会社」は、水谷政次郎という人が1904年(明治37年)に大阪で始めたパン屋でした。最初は小さな店でしたが、大阪の大火の時に消防夫たちに大量のパンを無料で配ったことが美談として新聞を賑わせ人気を呼び、さらに大正時代の米騒動の際には、米価の上昇に伴ってパンの需要が一気に増大し、他のパン屋が軒並みパンを値上げした中で、マルキ号だけは以前の価格のまま販売したということで大阪の街で話題になり、また一段と人気を上げたのです。
 このような勢いに乗って、マルキ号は大阪一のパン屋にまで発展しましたが、社長の水谷政次郎はこの成功に安住せず、女婿の水谷清重氏をアメリカ製パン研究所に留学させ、イースト菌に関する最新の科学的成果を取り入れて研究を進めました。そして、日本で初めてイースト菌の培養に成功したことは、前述のとおりです。
 さらに水谷社長は同郷の友人に依頼して、大規模なアメリカ式の製パン機械を初めて国産で開発し、当時「東洋一」と言われる製パン工場を建設しました。また、原料の小麦粉も安定して確保するために、北海道に広大な土地を購入・開墾してアメリカ式農場で小麦を作り、自社で使用する小麦粉を自前で生産するシステムも作り上げました。(このマルキ号農場の跡地が、現在の千歳空港になっているとのことです。)
 しかし、このような努力と工夫で発展させた会社も、太平洋戦争突入と国家総動員体制の荒波をもろにかぶり、藻屑と消えてしまうのです。1942年(昭和17年)に食糧管理法が公布され、各地に国の管理する「食糧営団」が組織されると、各業者は様々な圧力を受けて食糧営団に接収されていきます。水谷社長は、北海道開墾と農場経営の手腕を買われて、セレベス島の開拓指導者として赴くことを受諾し、マルキ号パン会社は、大阪食糧営団に譲渡・吸収されてしまいました。
 そして、かつては「東洋一」と謳われたパン工場も、空襲で壊滅してしまったのです。

 となると、マルキ号パン会社の消滅とともに、我らが福田留吉がどうなったのかということが、気になるところです。大阪食糧営団に接収された後も、しばらくは営団職員としてパンの研究製造に携わったという可能性もありますが、まだ30代の壮年男子ですから、召集され戦地に行っていた可能性も大きいでしょう。
 戦後、水谷政次郎の女婿の水谷清重氏が、マルキ号パン会社の再興を図ったが果たせなかったとういことですから、福田留吉は、この「マルキ号」の本当の最期を見届けてから、故郷岩手県に帰ったのかもしれません。

 いずれにせよ、1948年(昭和23年)に、現在の本店がある盛岡市長田町で、福田留吉は「福田パン」を開業します。この年、留吉はすでに37歳で、奇しくも賢治が没した年齢になっていました。戦争を経て、「第二の人生」を始めるという心境だったかもしれません。
 創業当初から、「秘伝のコッペパン」は人気を集めたということですが、そこには大阪のマルキ号パン会社の味が、受け継がれていたのではないでしょうか。

 その後、福田パンが大きく発展して、「盛岡のソウルフード」と呼ばれ、世代を越えて老若男女に親しまれるようになる過程については、冒頭で触れました。
 それにしても、稗貫農学校・花巻農学校における「賢治の教え子」は、総計157名に上りますが、その中で「商業的に最も成功した人」を挙げるならば、私の知るかぎりでは、この及川(福田)留吉がそうなのではないかと思うのですが、どんなものでしょうか。
 また、ただ単に経済的な面での達成だけでなく、「ソウルフード=魂の食べ物」と呼ばれるような商品を世に送り出すことが出来たという点において、「ほんたうのたべもの」を求めた宮澤賢治という人の精神にも、通ずるものがあるようにも感じます。


 最後に、私には今度「福田パン」に行った時にはぜひ注文してみたいと思っているメニューがありまして、それは139円の「バナナ」と、205円の「ハムサンド」です。
 及川留吉少年が、特務曹長を熱演した劇「バナナン大将」において、実は「バナナ」は大将の肩章(エボレット)、「ハムサンドウィッチ」は、六番目に頂戴する勲章だったのです。一度これらの優しい味を愛でながら、創業者の若き日に思いをはせてみたいなあと…。

特務曹長 「次はどれでありますか」
大将 「これぢゃ」
特務曹長 「実にめづらしくあります。やはり支那戦争でありますか。」
大将 「いゝや。支那の大将と豚を五匹でとりかへたのぢゃ。」
特務曹長 「なるほど、ハムサンドウィッチでありますな。」(兵卒六これを嚥下す。)
                           (劇「飢餓陣営」より)

【劇「飢餓陣営」関連歌曲】
私は五聯隊の古参の軍曹
一時半なのにどうしたのだらう + 糧食はなし四月の寒さ
飢餓陣営のたそがれの中
いさをかゞやくバナナン軍(バナナン大将の行進歌)


Sachikoの歌う「大菩薩峠の歌」

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 先日 YAMAHA から、歌手の小林幸子さんの歌声をもとにした VOCALOID 音声ライブラリー、‘Sachiko’が発売されました。

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 あのドスのきいた小林幸子さんの声…を想像して、個人的にまず制作してみたいと思ったのが、賢治の「大菩薩峠の歌」でした。

 ということで、以前に「歌曲の部屋」で公開していたものとは、伴奏の楽器編成も少し変えて、DTM化してみたのが、下のファイルです。

 ♪ 大菩薩峠の歌 MP3 (Sachiko版)

二十日月かざす刃は音無しの
       虚空も二つときりさぐる
                  その竜之助

風もなき修羅のさかひを行き惑ひ
       すすきすがるるいのじ原
                  その雲のいろ

日は沈み鳥はねぐらにかへれども
       ひとはかへらぬ修羅の旅
                  その竜之助

 VOCALOID も本当に進化したもので、以前の「初音ミク」などは、人間の歌とは違うヴァーチャルな感じがその魅力の一つだったものでしたが、これはまるで、小林幸子さん本人が歌っているかのような独特のビブラートまで聴かせてくれます。
 伴奏楽器は、Garritan World Instruments から、琴、古箏、鼓、中太鼓、虎杖笛、ベース、それに持鈴です。

宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

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 11月29日(日)に行う、「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」まで、あと3週間となりました。

 今回のプログラムは、竹崎利信さんによる賢治作品の「かたり」の合間に、私が「解説」をはさむという形になっていますので、竹崎さんと私とで合同の「稽古」を、竹崎さんのご自宅のある宝塚市で、これまで3回行いました。だんだんとイメージが具体的な姿をとってで現れてくるにしたがって、私たちとしてもますます当日が楽しみになっているところです。

 第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都―宮沢賢治の「悲嘆の仕事(グリーフ・ワーク)」

 全体のプログラムは、チラシにある当初の予定から少しだけ変わって、下記のようになりました。

1.死ぬことの向ふ側まで一諸について・・・
   ひかりの素足(部分)
   イギリス海岸(部分)

2.臨終の日
   永訣の朝
   松の針
   無声慟哭

  (休憩)

3.探索行動・深層意識の言語化
   風林
   青森挽歌
   宗谷挽歌

4.現実との相克から内心の葛藤へ
   手紙 四
   宗教風の恋

5.「死者とともにある」
   この森を通りぬければ
   薤露青
   銀河鉄道の夜
(部分)

 竹崎利信さんによる美しい「かたり」によって作品を鑑賞しつつ、トシの闘病中、臨終の床、死後、と順を追って、賢治の「心の軌跡」をたどるという企画です。
 日時は、11月29日(日)午後2時から、場所は、京都市上京区の京都府庁敷地内にある、「府庁旧本館正庁」で行います。
 会場として使用させていただく「京都府庁旧本館正庁」は、明治時代に建てれた国の重要文化財で、これをご覧いただくだけでも、かなりの価値はあると思います。

 今のところまだ席に余裕はありますが、「当日券」は設けていません。私あてにメールをしていただければ、予約をお取りいたしますので、行ってみようかと思われる方は、メールをいただければ幸いです。


 さて下の絵は、当日の配付資料の最後のページに載せる予定のものです。今回のプログラム最初の「ひかりの素足」と、最後の「銀河鉄道の夜」とは、ちょうど相似形の構造になっているのですが、催し全体のテーマも、やはり同型だということを表しています。

「ひかりの素足」、「銀河鉄道の夜」、宮沢賢治のグリーフ・ワーク

「宗谷挽歌」と歎異抄

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 十代半ばまでの宮澤賢治は、家の宗派であった浄土真宗を深く信仰していて、16歳の時には父あての書簡の中で、「小生はすでに道を得侯。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し侯。」(書簡6)という宣言までしていました。3歳頃には、「正信偈」や「白骨の御文章」を暗誦していたという逸話が残っている賢治ですが、きっと「歎異抄」にも馴れ親しんでいたことでしょう。
 そんな賢治が、少なくとも1918年2月には、浄土真宗から離れて完全に法華経にはまり込んでいたことが、父あての「書簡44」や「書簡46」から見てとれます。そして、死の当日に父に伝えたという遺言も、「国訳妙法蓮華経を千部作って配って下さい」というものでしたから、その信仰は死ぬまで変わらなかったと言えるでしょう。

 しかし、このように法華経や日蓮に深く帰依し続けていた賢治の信仰心や思想に、実は「浄土真宗的」な要素が分かちがたく結びついていたということを、松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』という本は詳しく分析してみせてくれていますし、私自身も以前に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という記事などで触れました。
 上記の私の記事で取り上げたのは、「青森挽歌」に突如として出現する《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という命題は、「歎異抄」において親鸞が言ったとされる、次の言葉をルーツに持っているのではないか、ということでした。

 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。                   (『歎異抄』第五条より)

 すなわち、親鸞は父母への孝行のために念仏を唱えたことは一度もない、なぜなら一切の生き物は皆、輪廻転生のうちには自分の父母兄弟だったこともある存在なので、この次の生で(自分が死んで浄土に生まれて)仏になってから、あらためて皆をお救いするべきだからだ、というのです。
 ここで親鸞は、父母兄弟のことを「いのつてはいけない」と禁止まではしていませんが、少なくともそれは無意味なことだと見なしています。現代の浄土真宗は、おそらくここまで潔癖な態度はとっておらず、他の宗派と同じように亡くなった方のための「法事」も執り行っているのでしょうが、この親鸞の言葉は今の日本人の感性とは一線を画しているので、とても印象的です。

 一方、賢治がこの頃も信じていたはずの日蓮は、近親者を亡くした遺族が故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあると言い、大いに行うよう積極的に勧めていました。ですから、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という命題は、日蓮の考えとは異なっているのです。
 前掲の松岡利夫著『宮沢賢治と法華経 日蓮と親鸞の狭間で』によれば、日蓮にも「六道四生の一切衆生は皆父母也」という言葉があり(「法蓮抄」)、やはりすべての生き物が父母であったということは述べていますが、賢治は「みんなむかしからのきやうだい」と書いているところを、日蓮は「父母」だけを挙げているのに対して、親鸞は上記のように「父母兄弟」としています。したがって松岡利夫氏は、「青森挽歌」のこの箇所は日蓮ではなく親鸞の影響を受けたものであろうと、推断しておられます。

 そして今日ふと思ったのは、「青森挽歌」の翌日に書かれた「宗谷挽歌」の、次の箇所についてです。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。

 詩の前半部によれば、稚内からサハリンへ向かう連絡船の甲板に立っている賢治は、もしもトシがどこからか自分を呼ぶ声が聞こえたら、「私はもちろん落ちて行く」という決心を固めています。
 何のためにトシが賢治を呼ぶのかというと、トシが死んだ結果、「われわれが信じわれわれが行かうとするみち」、すなわち法華経が、「まちがひ」であったと判明したならば、その事実を「まっすぐにやって来て/知らせて呉れ」というわけです。
 この理屈に立つならば、トシが賢治のもとにやって来て再会すること、あるいは会えないまでも二人で通信をかわすことは、「ひとりをいのる」行為に伴うものではなく、現世で法華経を信仰している人すべてにその誤りを伝えるための行いであり、すなわち「みんなのほんたうの幸福を求めて」の行為なのですから、「青森挽歌」でもたらされた上記の啓示には違反しません。

 しかし、この「理屈」を皆さんはどう評価されるでしょう。確かに、一応の筋は通っていますが、でもその理屈の皮を一枚めくれば、とにかくトシと会いたい、声を聞きたい、という肉親の愛情に基づいた賢治の本心が、ありありと見えてしまうように、私には感じられます。「ひとりをいのつてはいけない」との制約を自らに課しながら、それでもなおトシと会いたい一心で構築した、綱渡りのごとき論理のように、私には思えるのです。

 いずれにせよ、もしもトシが、夜の船上にいる賢治にそのようなことを知らせてくれたら、賢治は「もちろん落ちて行く」という覚悟を決めていて、そして海中に沈む賢治とトシの二人=「私たち」は、「このまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」と、自らに言い聞かせています。

 私がふと感じたのは、この「私たちはこのまゝこのまっくらな/海に封ぜられても悔いてはいけない」という箇所は、これも「歎異抄」の次の部分と、どこか似ているのではないか、ということです。

 念仏は、まことに、浄土にむまるるたねにてははんべらん、また、地獄におつべき業にてははんべるらん。惣じてもって存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。 (『歎異抄』第二条より)

 念仏というものが、浄土に生まれる契機になるのか地獄に落ちる罪業になるのか知らないが、たとえ法然上人に騙されて地獄に落ちたとしても、何ら後悔すべきではない、と親鸞は言うのです。

 賢治が封ぜられるのは、まずは「このまっくらな海」ですが、地獄にいて苦しんでいるトシのもとに行くのですから、最終的にはやはり地獄です。そして、地獄に落ちる理由は、賢治とトシも、法然と親鸞も、どちらも「信仰が間違っていたから」ということで共通しています。
 後悔すべきでない理由は、賢治の場合は「みんなの幸福」のためだから、親鸞の場合は「他に方法がないから」、ということで異なっていますが、トシと再会できる賢治と同様に、きっと親鸞は地獄で法然に会えるでしょう。
 親鸞が法然から直に教えを受けられたのはわずか6年のことで、承元元年に法然は讃岐へ、親鸞は越後へと流罪になり、これが二人の今生の別れとなりました。「歎異抄」では上の箇所に続いて、「地獄は一定すみかぞかし」という有名な一節が出てきますが、トシのもとへ行く賢治と同じく親鸞にとっても、「お慕いする法然上人と一緒なら、たとえ地獄でも・・・」という気持ちがあったのかもしれません。

 ということで、この二つの状況にはある種の共通点を感じ、私としては「青森挽歌」のみならず翌日の「宗谷挽歌」においても、賢治の深層意識からは、むかし親しんだ「歎異抄」の思想や言葉が、思わずにじみ出てきていたのではないか、という気がするのです。

対馬丸
「宗谷挽歌」において賢治が乗船していたと推測される「対馬丸」
(萩原昌好著『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」への旅』より)

第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都・終了

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 去る11月29日(日)、私どもの企画した「第7回イーハトーブin京都」が、無事終了いたしました。寒い日でしたが、会場いっぱいの皆様にお越しいただき、竹崎利信さんによる賢治作品の美しく迫真の「かたり」を、ご一緒に堪能することができました。
 いただいた「参加費」は、今回もまた東日本大震災の被災地にお届けさせていただきます。

 お話しした内容については、またいずれきちんとした形でまとめたいと思いますが、今日は当日のいくつかの写真のみご紹介申し上げます。


 まず、舞台設定時のプロジェクター試写。三つの丸い明かりとりの窓が印象的でした。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」舞台設定


 竹崎利信さんによる「かたり」に、会場の皆さんとともに固唾をのんで耳を澄ませます。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」:竹崎利信さんの「かたり」


 私が解説をしているところ。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」・解説風景


 最後の、「銀河鉄道の夜」の一コマです。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」より:「銀河鉄道の夜」


 終了後のご挨拶。もうかなり暗くなってしまいましたが、長時間ありがとうございました。

「第7回イーハトーブ・プロジェクトin京都」より:終了後のご挨拶


 お越しいただいた皆様に、厚く御礼申し上げます。
 また今後とも、よろしくお願い申し上げます。<(_ _)>

賢治は水族館を見たのか

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1.青森の夜汽車の窓

 「青森挽歌」の書き出しは、じつに印象的です。

   青森挽歌

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
   (乾いたでんしんばしらの列が
    せはしく遷つてゐるらしい
    きしやは銀河系の玲瓏レンズ
    巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
〔後略〕

 本当に、夜行列車に乗って黒い窓から見知らぬ風景を目を凝らしながら眺めている時の気持ちは、水族館に行って水槽の中の不思議な生き物たちを見ることに、どこか通ずるものがあります。
 「四角いガラス窓を通して、その向こうにある暗い空間の様子を見る」という位置関係が、まさに夜行列車の窓と水族館の水槽とを相似形にしているのでしょうが、共通しているのはおそらくその物理的な状況だけではなくて、何か日常世界を離れて「異界」に来たような、心理的なものも関わっているのかもしれません。この「異界」の感覚は、夜の列車が銀河鉄道へと昇華されるに至って、最大化されます。
 高校生の頃の私は、将来自分が夜行列車でも何でも乗って、自由に旅ができるようになった時のことを想像しながら、この「青森挽歌」を読んでいたものでした。

 ところで、「客車のまど」を「水族館の窓」になぞらえるというこの比喩を着想した賢治自身は、実際に「水族館」を見たことはあったのでしょうか。これほど絶妙の表現が出てくるからには、きっと実物を見ていたのだろうと個人的には思うのですが、作品を含めて賢治自身の書いたものや、関係者の証言の中には、彼が水族館を見たという証拠となる記録はないようです。

 そもそも、賢治の時代に「水族館」というものは、どのくらい一般的なものだったのでしょうか。


2.日本における水族館の歴史

 東海大学海洋科学博物館の設立に尽力してその館長も務め、現在は東海大学名誉教授である魚類学者の鈴木克美氏は、日本における水族館研究の第一人者と呼ぶべき方だと思いますが、その鈴木氏の論文「我が国の黎明期水族館史再検討(2001)」と、著書『水族館 ものと人間の文化史』(法政大学出版局, 2003)などをもとに、日本で作られた水族館を開設順に並べてみると、次の表のようになります。

  名称 所在地 開設時期

1

上野動物園観魚室(うをのぞき)

東京市上野

1882/9/20−?

2

浅草水族館

東京市浅草

1885/10/17−2年未満で閉館

3

第三回内国勧業博覧会水族館

東京市上野

1890/4/1−7/31

4

東京大学理学部附属三崎臨海実験所付属水族館

神奈川県三崎町

1890夏−現在

5

第四回内国勧業博覧会水族室

京都市岡崎

1895/4/1−7/31

6

第二回水産博覧会水族館

神戸市和田岬

1897/9/1−1911

7

浅草公園水族館

東京市浅草

1899/10/1−1933頃

8

日本水族館

大阪市難波

1901/1/6−数年?

9

江ノ島水族館

神奈川県江ノ島

1902/8/24−数年?

10

第五回内国勧業博覧会堺水族館

大阪府堺市

1903/3/1−1961/9

11

横浜教育水族館

横浜市羽衣町

1906/7/13−?

12

東京勧業博覧会教育水族館

東京市上野

1907/3/20−7/31

13

京都市紀念動物園水族室

京都市岡崎

1908−?

14

北海道水産共進会水族館

北海道小樽市

1908

15

第十三回九州沖縄八県連合共進会水族館

福岡市箱崎

1910−1935?

16

名古屋教育水族館

名古屋市東築地

1910/4/10−?

17

富山県共進会魚津水族館

富山県魚津町

1913/9−1944/3

18

第十四回九州沖縄八県連合共進会水族館

大分県大分市

1921/3/15−5/10

19

東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館

青森市浅虫

1924/7−1984/4

20

松島教育水族館

宮城県松島村

1927/4/1−2015/5/10

21

別府市中外産業博覧会水族館

大分県別府市

1928/4/1−5/20

22

大礼記念国産振興東京博覧会水族館

東京市上野

1928/3/24−5/22


 これらの中から、賢治が生まれた1896年から「青森挽歌」が書かれた1923年までの期間に、賢治訪れたことがわかっている場所に存在した水族館を選び出してみると、7、11、13が、ひとまず可能性としては考えられます。しかしこの中では、7の「浅草公園水族館」が、何と言っても最有力候補だろうと、私は考えます。
 賢治は、1916年(大正5年)3月に盛岡高等農林学校の修学旅行の帰りに、浅草に立ち寄って

浅草の
木馬に乗りて
哂ひつゝ
夜汽車を待てどこゝろまぎれず

という短歌を残していますし、この後にも、同年7月−8月には「独逸語夏期講習」を受けるために東京に1か月滞在、あと1917年1月には商用の叔父に同伴して上京、1918年12月から1919年3月まではトシの看病、1921年1月から夏までは家出をして、いずれも東京に滞在していますから、浅草に行けたであろう機会は、何回もあります。
 また賢治は、特に「浅草オペラ」に対して格別の愛着を持っていたようで、劇「飢餓陣営」の構想や、詩「凾館港春夜光景」に出てくる当時の歌手の名前などを見ても、生前の賢治が何度も「浅草オペラ」を見たであろうことは、明らかです。となると、オペラの観劇のついでに、彼が浅草の水族館に立ち寄ったという可能性は、十分に考えられるわけです。

 賢治が、「浅草公園水族館」以外の水族館を見ていた可能性となると、上に触れたように、1916年の修学旅行で京都に行った際に、13の「京都市紀念動物園水族室」を見たか、1917年1月の上京時には横浜にも寄っていますから、この際に11の「横浜教育水族館」を見たということも、完全に否定はできません。しかし、前者では「水族室」という名称が「青森挽歌」とは異なること、1917年の横浜ではスケジュール的に余裕がなかったのではないかと思われることから、やはり私としては、賢治が見たであろう水族館としては、「浅草公園水族館」の一本で考えたいところです。

 ちなみに、上表の19の「東北大学理学部附属浅虫臨海実験所付属水族館」は、1984年まで閉館するまで60年にもわたって運営されてきた、当時としては先進的な施設の一つだったということですが、「青森挽歌」の賢治が、ちょうどこの浅虫のあたりを夜汽車に乗って通りかかった1年後に開館しているのが、面白いところです。


3.浅草公園水族館

 やはり鈴木克美氏の論文「浅草公園水族館覚え書(2003)」によれば、1899年10月11日に開業した「浅草公園水族館」はたいへんな大衆的人気を博し、「日曜のごときは極めて雑踏をなし、かつ室内暗黒なれば、開館の当初は、まま婦女子の櫛笄などを抜き去る無頼漢ありしとかや。館員の語るところによれば、一日平均三千名内外の観覧者ありという」(坪川辰雄「土木門 水族館」風俗画報, 1900)という盛況だったとのことです。
 水族館のあった場所は、下の地図の矢印のところで、Googleマップで調べると現在ここは「雷おこし」の常磐堂の経営する、「雷5656茶屋」というお店がある場所のようです。

 「浅草公園水族館」地図

 また、当時の「グラフ雑誌」と言うべき『風俗画報』という雑誌には、次のような「浅草公園水族館」の外観の絵が載せられています。

「浅草公園水族館」外観
浅草公園水族館覚え書」より

 さらに、水族館の内部の様子は、浮世絵のような見事な多色刷り版画で描かれています。

「浅草公園水族館」
我が国の黎明期水族館史再検討」より

 ところで、上の画像の左下部分にある、水族館の中の様子を拡大すると、下のようになっています。

「浅草公園水族館」

 これを見ると、狭い幅でまっすぐ長い通路の横に、同じ大きさの長方形の「窓」がずらりと並んでおり、これはまさに「客車のまど」と言うにぴったりの景観です。トンネルまたはチューブのように、天井が丸みを帯びた内部の作りは、鉄道列車の中の様子を連想させるもので、やはり賢治が「青森挽歌」の比喩を思いついたきっかけは、この水族館だったのではないかと、ますます考えたくなります。

 さて、このようにオープンの当初は賑わっていた「浅草公園水族館」ですが、大正時代に入ると、徐々に客の入りが減少していきました。盛り返しを狙った経営者は、1913年(大正2年)頃から水族館の2階に演芸場を設け、「娘手踊り」などのアトラクションで、客を取り戻そうとしました。
 ところで上の表からもおわかりのように、当時の水族館というのは、博覧会などの際に一時的に設けられるものが多く、常設として開館したものでも、わずか数年で閉館になっているところがほとんどです。その理由は、当時の知識や技術では、魚などの海の生き物を長期間にわたって飼育しつづけるのは困難で、数年もたつうちには、開館当初に揃えた生き物たちはだんだん死に絶えていくからです。展示生物の減少ともに、人々にも飽きられていって客が減り、経営が苦しくなると新しい生物を補充する予算もなくなって、ますます貧弱な内容になる、という悪循環が起こります。
 上の絵のように見事だった「浅草公園水族館」の水槽も、ある時期からは、「申しわけのように金魚とスッポンを泳がせている」というような状態になっていったという記述もあります(水守三郎「レヴユーからバーレスクへ」)。

 1923年の関東大震災の際には、浅草も壊滅的な被害を受けたということですが、いったんは水族館も何とか再興したようです。そしてその後、1929年(昭和4年)に水族館2階の演芸場は、後に「喜劇王」とも呼ばれる榎本健一(エノケン)を座長とする「カジノ・フォーリ−」として新装オープンし、これが図らずも爆発的な人気を呼ぶことになります。エノケンは、機知に富んだ演出で、レヴューや軽演劇を上演し、「水族館の二階の演芸場は、もともと下の水族館の、いわば客寄せで、水族館の付録のようなものだったが…これは逆になり水族館のほうが付録になってしまった」と、自らも回想しています(榎本健一「“浅草と僕”―思い出すカジノ・フォーリ−, 1955」)。

 このように、水族館そのものは「おまけ」のような地位に甘んずることになりますが、軽妙な演劇や若い女性による華やかなレヴューと、薄暗く不思議な雰囲気の漂う水族館が、一つの建物に共存するという奇妙なマッチングは、当時の文学者たちの創作意欲をかき立てたという一面もあったようです。川端康成は、浅草公園水族館も登場する一連の作品、『浅草紅団』(1929)、『水族館の踊子』(1930)、『浅草の姉妹』(1932)を発表して、これがまた浅草のこの界隈に人々の注目を集めることとなりました。堀辰雄も、ここを舞台に『水族館』(1929)という短篇を書いています。
 『水族館の踊子』における川端の描写は、次のようなものです。

そのガラスは、水槽の底だったのです。水族館で一番大きい水槽だったのです。たひ、すずき、をこぜ、ほうぼう、のどくさり、かれひ、―いろんな魚が泳いでゐましたよ。…その水槽の上が舞台だったのです。真上かどうかは分からないが、とにかく、なんかしかけがあるのか、その水槽を通して穴倉から舞台が見えたのです。…踊子と魚が、同じ水の中にゐるやうにです。


4.賢治の他の作品

 賢治の他の作品で「水族館」が登場するものを調べてみると、「口語詩稿」に分類されている「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」の最後の部分に、次のような箇所があります。

〔前略〕
こどもらがこっそりかはるがはる来て
がらすの戸から口をあいたりのぞくのは
水族館のやうでもある
おとなもそろそろ来てゐるやうだ
日高神社の別当は
いまだに眉をはげしく刻む

 これは、賢治が農学校を退職した後の羅須地人協会時代の作品と思われますが、何かの用事で彼が学校の職員室にやってきた時の情景のようです。職員室にいる賢治たちを、ガラス窓を通して生徒たちが廊下から面白そうに眺めているという場面で、これを「水族館」に見立てるならば、生徒たちが観客で、賢治ら来賓が「魚たち」に相当するのでしょう。廊下の横の窓が「水族館の窓」という状況は、これも上に載せた『風俗画報』の拡大図の、長細い水族館の通路の様子を彷彿とさせます。
 あとこれ以外では、上記作品を文語詩化した「来賓」という作品の「下書稿(一)」の手入れ形に、「児童(こ)らもこもごものぞけるは/水族館のごとくなり」として、さらに「下書稿(二)」の初期形に、「児童(こ)らこもごもにのぞけるは/水族館のけはひなり」として登場していますが、その「定稿」では姿を消しています。

 それからもう一つ、「水族館」ではありませんが、「口語詩稿」の「来訪」という作品が、私は気になります。それは、下記のようなものです。

     来訪

水いろの穂などをもって
三人づれで出てきたな
さきに二階へ行きたまへ
ぼくはあかりを消してゆく
つけっぱなしにして置くと
下台ぢゅうの羽虫がみんな寄ってくる
  ・・・・・・くわがたむしがビーンと来たり、
       一オンスもあって
       まるで鳥みたいな赤い蛾が
       ぴかぴか鱗粉を落したりだ・・・・・・
ちゃうど台地のとっぱななので
ここのあかりは鳥には燈台の役目もつとめ
はたけの方へは誘蛾燈にもはたらくらしい
三十分もうっかりすると
家がそっくり昆虫館に変ってしまふ
  ・・・・・・もうやってきた ちいさな浮塵子
       ぼくは緑の蝦なんですといふやうに
       ピチピチ電燈をはねてゐる・・・・・・
〔後略〕

 これも羅須地人協会時代の作品のようで、賢治が暮らしていたあの建物を描いています。部屋の灯りをつけっぱなしにしておくと、羽虫がたくさん入ってきて、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と言っているのですが、じつはこの「昆虫館」という施設も、当時は浅草公園の水族館に隣接して建っていたのです。

 Wikipediaの「木馬館」の説明によれば、1907年に昆虫学者の名和靖が、「浅草公園水族館」の隣に開設したのが「通俗教育昆虫館」、通称「昆虫館」でした。川端康成の『浅草紅団』にも、「花屋敷と昆蟲館――この二つの小屋が、浅草の家庭的な遊び場として、諸君に知れ渡つてゐるのは、もちろん虎夫婦の寝相のためではない。メリイ・ゴオ・ラウンドの木馬があるからだ」として出てきます。
 水族館と同様に、この昆虫館もやがて経営が行き詰まり、1922年には昆虫の展示は2階部分のみとなって、1階には木馬が置かれて名前も「昆虫木馬館」に、次いで「木馬館」となります。ここは現在も名前が残って、「浅草木馬館大衆劇場」になっていますね。

 さて、上の作品で賢治が「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」と書いたのは、浅草公園の「昆虫館」を知った上でのことだったのでしょうか。
 これは「昆虫」と「館」を合わせただけの簡単な語句ですから、賢治の即興的な造語だった可能性も、もちろんあります。しかし私には、「家がそっくり昆虫館に変ってしまふ」という表現の背景には、「昆虫館」という既成の概念があったように、何となく感じられるのです。
 もしそうであれば、当時は東京の浅草以外には「昆虫館」などという施設はなかったと思われますから、賢治が「浅草公園水族館」を訪れていた可能性は、さらにいくぶん高まるとことになります。


5.列車は海中から天上へ

 以上、賢治が「浅草公園水族館」を実際に見ていた体験が、「青森挽歌」の「客車のまどはみんな水族館の窓になる」という一節に反映したのではないか、という私の個人的な想像を述べました。
 ここから先は、さらに空想的なお話です。

 上に引用した、「浅草公園水族館」の通路の拡大図を見ていただいたらおわかりのように、この水族館において観客は、まるで海中のトンネルから魚たちを眺める気持ちになるように作られています。下の図は、「浅草公園水族館」開館の翌年に出版された『少年教育水族館』という本の1ページですが、ここでも「まるで海の底へ遊びに行くやうです」と表現されています。

『少年教育水族館』
水産総合研究センター図書デジタルアーカイブ」より

 この、海中を思わせる「水族館の窓」が、「客車のまど」なのですから、この時の賢治のイメージの中では、列車は海中を走っているということになるでしょう。すなわち、「青森挽歌」が書かれた夜汽車に乗りながら、賢治が「客車のまど」を「水族館の窓」として感じたならば、彼は同時に、「いま自分は列車に乗って海の中を走っている」とも感じたはずです。

 一方、賢治の童話「双子の星」においては、「天上」と「海中」は、対になった相似の場所として、描かれます。
 チュンセとポウセの双子の星たちが、彗星の乱暴によって天上から海の底へ落とされてしまった時、二人は「ひとで」になってしまいます。ここでは、ちょうどどちらも「星形」の、天の「星」と海の「ひとで」が対応物になっているわけですが、賢治はこのようなアナロジーをさらに推し進め、まず「彗星」の自己紹介は、次のようです。

俺のあだ名は空の鯨と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなヒョロヒョロの星やめだかのやうな黒い隕石はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってそのまままっすぐに戻る位ひどくカーブを切って廻るときだ。まるで身体が壊れさうになってミシミシ云ふんだ。光の骨までがカチカチ云ふぜ。

 これに対して、二人が海で出会った「鯨」は、次のように言います。

俺のあだなは海の彗星と云ふんだ。知ってるか。俺は鰯のやうなひょろひょろの魚やめだかの様なめくらの魚はみんなパクパク呑んでしまふんだ。それから一番痛快なのはまっすぐに行ってぐるっと円を描いてまっすぐにかへる位ゆっくりカーブを切るときだ。まるでからだの油がねとねとするぞ。

 まさに賢治のユーモアがあふれている箇所ですが、ここでは天の「彗星」と海の「鯨」とが対応物だというわけですね。とにかくこの作品では、「天上」と「海中」の間に、相同性、双対性があるとされていて、チュンセとポウセが墜落することによって「天」と「海」が入れ替わっても、そして最後に天上に戻されることで再び両者が入れ替わっても、双方には相似の世界が広がっているのです。

 それでは、「青森挽歌」において「海中を走る列車に乗っている」賢治に対して、このような「天上」と「海中」の入れ替え操作を行うと、どうなるでしょうか。
 もちろん列車は、天上の空間を、星々の間をめぐりながら走る、ということになるわけです。トシのことを思いながら夜汽車に乗っていた賢治は、ひょっとしたらこういうイメージの変転によって、「銀河鉄道の夜」の着想に至ったのではないかと、私はふと思ってみたりする次第です。

佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』

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 あけましておめでとうございます。

 今年は、賢治生誕120周年という節目の年で、「十干十二支」においても賢治と同じ丙申(ひのえさる)にあたりますが、はたしてどんな1年になりますでしょうか。

 私自身は、この年末も年始もごろごろと過ごしていたのですが、休みの間に、『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー、系統樹』という本を読んでみました。

ヘッケルと進化の夢 ヘッケルと進化の夢
佐藤恵子

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 本の帯には、「日本初紹介!エルンスト・ヘッケルの実像」とあります。思えば私も10年ほど前に、ヘッケルについて少し調べて、当ブログの「エルンスト・ヘッケル博士とその業績(2)」という記事などに書いたことがあるのですが、確かにこの当時も、日本語の文献でヘッケルについて詳しく書かれたものは、なかなか見つかりませんでした。
 戦前までさかのぼれば、単行本として出されたものとしても、岩崎重三著『進化論者ヘッケル』(1921年刊)や、シュミット著『ヘッケル伝:ひとつの偉大な人生の記念碑』(1942年邦訳刊)など、ヘッケルの業績や生涯について詳述した書物がありますので、今回の本に「日本初紹介!」とまで銘打つのは、厳密にはやや言い過ぎになるのかもしれません。
 しかしそれにしても、当時からまた格段に進歩した現代の科学的視点に立って、ヘッケルが残した厖大な著作やその理論体系を、わかりやすく一望できる書物が登場したということは、とても意義のあることと思います。

 著者の佐藤恵子氏は、東大薬学部在学中に「医学や薬学の根底にあるドイツ思想の影響に関心を抱き」(「あとがき」より)、ふたたび学士入学してドイツ地域研究や科学史科学哲学を、さらに大学院で比較文学比較文化を学ばれたということです。そのような経歴も反映して、この本の特色は、生物学をはじめとしたヘッケル本来の自然科学的業績を紹介するする「理系」的な部分と、それを当時の文化や思想など人文科学的背景に位置づけていく「文系」的な部分とが、うまく有機的にかみあっているところにあると言えるでしょう。
 「まえがき」にある著者の次の言葉は、まさにそのような本書の魅力を言い表してくれていると思います。

 ヘッケルを読むことはまた、十九世紀末ドイツという、私たちにとっての異文化空間で、自然科学と文化と社会がどう影響し合いながら歴史を推し進めてきたかを見出す一つのヒントを示すことでもあり、さらには、その流れが織り糸の一本となって、私たちの今を織り上げていることを知るヒントにもなるだろう。

 著者によれば、ヘッケルは「単なる生物学者」ではありませんでした。「彼は、私たちの常識を覆すほど多方面で活躍してきた人物」であり、「十九世紀後半のドイツにおいてヘッケルは、良くも悪くも、計り知れない威力と影響力をもっていた」のです。
 そしてその圧倒的な存在感は、遠く日本岩手の宮澤賢治にも到達し、賢治はヘッケルの思想から、「何か」を感じとっていたのは確実です。

 それが「何か」ということに関しては、賢治研究者の間でもまだ議論が錯綜しているのが現状ですし、本書においても、

また、日本への影響も、三木成夫、夢野久作に関しては生物発生原則の影響の箇所で少し触れたが、宮沢賢治、森鴎外、加藤弘之をはじめとする知識人への影響については力が及んでいない。

と「あとがき」に書かれているように、賢治がヘッケルをどう受容したのかということについては、残念ながら触れられていません。
 しかし、上のように本書の著者が賢治との関連についても問題意識を持って下さっているということは、賢治愛好家の一人としても嬉しいことですし、また今後の展開を楽しみにお待ちしたいと思っています。

 ところでその、「賢治はヘッケルの思想に何を感じとっていたのか」という問題については、私自身これも以前に「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事において考えたことがありましたが、この時はヘッケルの「反復説」と、仏教の「輪廻転生説」との関連に、注目してみたのでした。
 今回また、ここでご紹介した『ヘッケルと進化の夢 一元論、エコロジー、系統樹』を読んだことをきっかけに、あらためて「青森挽歌」におけるこの問題についてお正月の間にあれこれ考えつつ、ヘッケル著『生命之不可思議』を読んでみたり、いろいろな賢治研究者の説を読んでみたりしたのですが、そのうちに前回の拙記事とは少し違った解釈の可能性について、考えるようになりました。

 いずれ、またそのことについて書いてみたいと思っています。
 本年もよろしくお願い申し上げます。

「タンタジールの死」と《ギルちゃん》

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 「宗谷挽歌」には、賢治と死んだトシとの間を隔てるものとして、「タンタジールの扉」という言葉が出てきます。

われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。 
    (おまへがこゝへ来ないのは
    タンタジールの扉のためか、
    それは私とおまへを嘲笑するだらう。)

『タンタジールの死』 この「タンタジール」とは、ベルギーの詩人・劇作家であるモーリス・メーテルリンクが、1894年に書いた戯曲「タンタジールの死」に由来しており、日本ではたとえば1914年に翻訳が刊行されています。このように作品中に名前が引用されているのですから、おそらく賢治自身、この「タンタジールの死」を読んでいたと考えてよいでしょう。(右画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された同書の扉です。)

 メーテルリンク初期の象徴主義作品の典型の一つと言われるこの戯曲は、暗い谷で暮らす二人の姉と爺やのもとへ、幼い弟タンタジールが海を渡って戻されて来た場面から始まります。
 彼ら姉弟と爺やは、谷底に建つ古い城の一角にある部屋で暮らしています。城には高い塔があって、その塔の中には女王が住んでいると言われていますが、誰もその姿を見た者はありません。すでに父親は亡くなり、二人の兄も行方が知れず、冒頭からこの家族には、死の影が色濃く漂っています。そして、長姉のイグレーヌも、次姉のベランジエールも、爺やのアグロワールも、帰ってきた幼いタンタジールが、塔の女王によって連れ去られてしまうのではないかと、なぜかひどく怯えている様子なのです。
 ベランジエールは、たまたま塔の下まで行った際に、女王が子供を見たがっているという侍女たちの会話を耳にしたと、姉に報告します。そして女王の召使いたちが、今夜にもここに来るかもしれないというのです。そこで姉たちは部屋の扉を見張り、爺やは剣を膝に置いて、タンタジールの番を始めました。
 夜になると案の定、扉の外に大勢の人の気配が現れました。姉たちは、必死に扉を押さえて抵抗しましたが、結局開けられてしまい、爺やが突き出した剣も、あっけなく折れました。もう駄目かと思った時に、気を失っていたタンタジールが我に返り、扉はまた閉められて、幼な児は助かったのです。
 その夜遅く、また女王の三人の侍女は、ひそかにタンタジールを連れ去る相談をしていました。姉二人もタンタジールも爺やも、ぐっすりと眠りこんでいますが、タンタジールは姉イグレーヌにしっかりと抱き付き、姉の長い黄金色の髪を自分の手にからめ、さらに堅く歯でも噛みしめています。決して離れまいとする二人は、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」状態なのです。それでもしかし、侍女たちはこっそりと忍び込み、イグレーヌの髪をハサミで切って、タンタジールを連れ去ってしまいました。
 その時タンタジールが遠ざかりながら上げた声で、姉たちは目を覚まして、弟の不在に気がつきます。しかしベランジエールはショックのあまり昏倒してしまい、イグレーヌが一人、道に落ちている自分の金髪をたどって、城の塔に至ります。
 彼女が夢中で階段を昇っていくと、塔の円天井の下に、大きな鉄の扉がありました。その扉の隙間にまた金髪が挟まっていたので、イグレーヌは確かにここにタンタジールがいることを悟ります。姉が、激しく扉を叩いて弟の名前を呼ぶと、弱々しい返事とノックが返ってきました。イグレーヌは必死になって扉を押したり引いたり、何とかして開けようとしますが、びくともしません。
 そのうちにタンタジールは、「あいつの息がかかる」と言い出し、さらに「あいつが僕の喉をおさえる」と訴えはじめましたので、イグレーヌは狂ったように扉を引っ掻き、やがてその爪ははがれ、扉に打ちつけたランプも砕けて、とうとうあたりは真っ暗になってしまいました。
 最後は絶望のうちに、重い扉をはさんで姉と弟はキスをかわし、やがてイグレーヌの耳には、扉の向こうで小さな体が倒れる音が聞こえたのです・・・。

 これは、物語としてはごく単純で、最初からタイトルに示された結末に向けて、ただ進んでいくだけなのですが、それでも読者は、何か心の奥に強く迫ってくるものを感じざるをえません。すべての登場人物にも観客にも、始めから恐ろしい結末が見えていながら、それでもその進行を如何ともできない人間の無力さが露呈し、全てを超越した「死」というものの底知れぬ強大な力が、ひしひしと迫って来ます。

 そしてこのように、「愛する者の死を予期し、何とかしてそれに抗おうとしながらも、結局はその愛する者を失ってしまう」というプロセスは、ずっと病床にあったトシを見守り続けていた賢治の日々と、まさに重なるものだったはずです。きっと賢治は、1922年の初め頃から11月までずっと、この作品における長姉イグレーヌと同じ心境を味わいつづけていたに違いありません。
 とりわけ私にとって印象深いのは、最後の晩にイグレーヌとタンタジールが、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに、互に、扼(つか)み合つてる」と描写されている箇所です。
 以前に私は、賢治が1922年8月に書いた短篇「イギリス海岸」において、もし生徒が溺れた時には「たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらうと思ってゐた」と記している心の底には、実は死んでいくトシに対する自らの気持ちがあったのではないかと、推測してみました。「タンタジールの死」のこの箇所における、「水の中に溺れかゝつてゐるやうに」という比喩は、まさにこの「イギリス海岸」の表現を思い起こさせます。
 さらにまた私は、賢治が1922年9月以降に手入れをした可能性もある童話「双子の星」において、チュンセとポウセが彗星にだまされて天から海へと墜落していく際に、「二人は落ちながらしっかりお互の肱をつかみました。この双子のお星様はどこ迄でも一諸に落ちやうとしたのです」と書かれている箇所にも、トシから離れずどこまでも一緒に行ってやりたいという賢治の思いが投影されているのではないかと推測してみました。「タンタジールの死」において、「互に、扼(つか)み合つてる」というイグレーヌとタンタジールの様子は、「しっかりとお互の肱をつかみました」というチュンセとポウセにそっくりのように、私には思えます。

 つまり、このメーテルリンクの「タンタジールの死」という戯曲は、トシの死に怯えていた頃の賢治にとっては、まさに身に迫るように切実なものであり、そのような思いはひょっとして、上記のような作品における表現にも影響を与えていたのではないかと、私は思うのです。
 「宗谷挽歌」に登場する「タンタジール」という言葉は、「死」という絶対的な断絶を表現するというためだけでなく、賢治の心の中では、上記のような一連の思い入れを込めたものだったのではないかと、私はひそかに想像する次第です。

「タンタジールの死」より 

 さて、それからあともう一つ、私はこの「タンタジールの死」に関連して思い浮かぶものがあります。それは、「青森挽歌」の中に登場する、「ギルちゃん」という存在です。

あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
 (草や沼やです
  一本の木もです)
 《ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ》
 《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
  ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
 《ナーガラがね 眼をぢつとこんなに赤くして
  だんだん環をちいさくしたよ こんなに》
 《し、環をお切り そら 手を出して》
 《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
 《鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに
  ばあつと空を通つたの
  でもギルちやんだまつてゐたよ》
 《お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ》
 《ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの
  ぼくほんたうにつらかつた》
 《さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ》
 《どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう
  忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》

 ここで、二重括弧《 》で囲まれている内容は、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」で考えてみたように、作者賢治にとって「幻聴」として体験された言葉であろうと推測されます。
 そしてここに出てくる「ギルちゃん」は、死んでゆくトシを象徴するような存在かと思われますが、その正体についてはよくわかりません。一説には、この「ギルちゃん」とは実は蛙であり、環を作る「ナーガラ」は蛇のことなのではないかと言われており、これは「草や沼やです」という舞台設定や、「おもだか」という水生植物が出てくることからも、一定の説得力があります。
 しかしここで私が気になるのは、「ギル」というその名前です。これは「タンタジール」という名前の一部に由来しているのではないかと、ふと感じたのです。
 タンタジールは、もとのフランス語の綴りでは Tintagiles ですが、この後ろ半分の'giles'は、別の読み方をすれば、「ギル」と読むこともできます。そして、メーテルリンクの「タンタジールの死」におけるこの幼な子には、何となく「ギルちゃん」を連想させる場面が、いくつかあるのです。

 まず次の引用は、第二幕の冒頭です。

     第二幕

  城の内の一室、それに、アグロワアルとイグレエヌ坐せり。
  次でベランヂエール登場す
ベランヂエール。 タンタヂールは何処に居るの?
イグレエヌ。 此処に居るのよ、余り大きな声で話さないやうに
  ね、他の部屋で寝て居るんだから。少し顔の色が青いの、体が
  良くないやうだわ、旅の疲れが出たんだわ――それに長い事
  海の上に居たんだから。それとも、ひょっとしたら、此のお城の
  空気が、あの子の小さな魂を脅かしたのかもしれないわ。泣い
  て居ても、何うして泣くんだか自分でも判らないの。

 ここでタンタジールは、「少し顔の色が青い」と言われています。
 そしてまた、その少し後のところ。

  ベランヂエール、タンタヂールを腕に懐きつゝ隣の部屋より来る
ベランヂエール。 起きてるのよ……。
イグレエヌ。 顔の色が悪いのね……、何うしたんだらう?
ベランヂエール。 わたしにも判らないの……黙って、唯だ泣くの
  よ……。
イグレエヌ。 タンタヂールや……。
ベランヂエール。 あら、そっぽを向いて了ふわ。
イグレエヌ。 わたしが判らないやうだわ……タンタヂールや、
  お前何処に居るか知ってて?――お前と話しているのは
  姉さんよ……何をそんなにひとっとこを見つめて居るの?
  此方をお向き……さ、姉さんと遊ばうよ……。
タンタヂール。 いや……いや……。

 ここでもタンタジールはやはり顔色が悪く、ただ「ひとっとこ」を見つめるばかりです。一時的には姉のことが「判らない」ような様子を見せて、誘われても一緒に遊ぼうとしません。
 さらに、その少し後の箇所。

タンタヂール。 来たよ姉さん――、何うして灯は点って居ない
  の?
イグレエヌ。 灯は点ってるのよ、坊や……天井から垂っている
  ランプが見えないの。
タンタヂール。 うん、うん、……あれは小さいんだね、……外に
  点いて居ないの。
イグレエヌ。 外にはもうありは仕ないわ、あれで何でも見えるん
  だから……。
タンタヂール。 あゝ……。
イグレエヌ。 まあ、お前の眼は窪んだのねえ……。

 まだここでも、タンタジールの目はあまりよく見えていないような様子なのです。

 ということで、上に挙げた箇所におけるタンタジールの様子は、「青森挽歌」のギルちゃんが、「まっさを」になり、また「青くてすきとほるやう」になっていたこと、「眼は大きくあいてたけど/ぼくたちのことはまるでみえないやうだつた」こと、そして友だちと遊ぼうとしなかったことなどと、かなりよく似ているように、私には思えるのです。
 つまり、「青森挽歌」のこの部分で、ふと「ギルちゃん」をめぐるお話が語られた背景には、やはり当時の賢治の心に焼き付いていた「タンタジールの死」という戯曲があったのではないかと、私は考えるのです。

※ 本文中に引用した「タンタジールの死」のテキストや画像は、国会図書館デジタルライブラリーより、1914年に日吉堂本店から刊行された『タンタヂールの死: 附・群盲』(小島春潮訳)によっています。


万象同帰のそのいみじい生物の名

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 1922年11月27日の午後8時半、妹トシの臨終の場面において、賢治は死にゆく彼女の耳もとで、何事かを「ちからいつぱい」叫びました。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》

 上の「青森挽歌」のテキストによれば、賢治が叫んだのは、「万象同帰のそのいみじい生物の名」だったということです。
 これはいったい、何のことでしょうか?

 遂にトシの呼吸と脈が止まった時、その枕元へ走った賢治が何を叫んだのかということは、「永訣の朝」から続くこの運命的な一日のドラマを私たちが思い描く上でも、非常に重要なポイントです。ところが、この「生物の名」が意味するところについては、まだ賢治研究者の間でも、十分な意見の一致には至っていないのです。
 たとえば鈴木健司氏は、渡辺芳紀編『宮沢賢治大辞典』の「青森挽歌」の項に、次のように書いておられます。

 次の「いみじい生物の名」とは大乗経典の〈妙法蓮華経〉のこと。賢治は宇宙の本体を〈妙法蓮華経〉そのものと考えており、宇宙全体を一つの生物(釈迦の身体)と捉えようとする認識が見える。

 たしかに、臨終の瞬間のトシに賢治が「南無妙法蓮華経!」と叫んだとすれば、それは二人でともに法華経を信仰していた兄が、妹の最期にとった行動として、まさにふさわしいものと言えます。またこれを一般的な臨終の情景として眺めても、全く違和感はありません。
 しかし、私にとってはどうしても、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことに対して、納得のいかない感じが残るのです。

 もちろん賢治には、鈴木氏の指摘するとおり、「宇宙全体を一つの生物と捉えようとする」考え方があったでしょう。また、1918年頃の書簡には、「万物最大幸福の根原妙法蓮華経」「三世諸仏の眼目妙法蓮華経」「一切現象の当体妙法蓮華経」(保阪嘉内あて書簡50)とか、「妙法蓮華経ハ私共本統ノ名前デスカラ之ヲ譏ルモノハ自分ノ頸ヲ切る様ナモノデセウ」(成瀬金太郎あて書簡55)などの言葉もあります。
 そうすると、「妙法蓮華経」を「生物の名」と呼ぶことも、論理的には成り立ちうることに違いありません。しかし一方で、これを「宇宙の名」と呼んでも、「一切現象の名」と呼んでも、「私共の名」と呼んでも、論理的にはどれでもかまわないわけです。それなのに、なぜここでは「生物の名」なのでしょうか。
 賢治が、トシの臨終の床で「南無妙法蓮華経!」と力いっぱい叫ぶというのは、それはもう非常にありそうなことですが、もし賢治がそのことを書き記したいのなら、ここで賢治はなぜそれを「万象同帰のいみじい経典の名」と書かなかったのでしょうか。たとえその名をどのように修辞的に表現できるとしても、法華経とは、第一義的には「経典」です。鈴木氏の指摘のように、賢治にとっては法華経→宇宙→生物という概念的な置き換えが可能であったとしても、法華経そのものは、「生物」ではありません。この世に生まれ、そしてはかなく死ぬ運命にある無常の存在ではなくて、すべての現象を変わらず貫く「法」なのです。
 それなのに、ここで賢治が特に「生物の名」と書いていることには、何か理由があるはずではないか、賢治は単に「南無妙法蓮華経」と唱えただけではなかったのではないかと、私にはどうしても思えてならないのです。

 一方これに対して、この「生物の名」というところに、特に注目した説もあります。
 見田宗介氏は、『宮沢賢治―存在の祭の中へ』において、これを生物学者ヘッケルが、最も原始的な生命の段階として仮説的に提唱した「モネラ」という存在のことではないかと考えて、次のように述べておられます。

 中学生と女学生の賢治ととし子は、読んだばかりのヘッケルの書物のなかの、この〈モネラ〉という奇妙な生物のなかで、賢治ととし子も他のあらゆる人間たちも、他のあらゆる生命たちも、ひとつにとけ合っていたことがあったのだねなどと、なかばおどけて語り合い、うなずきあうこともあったかと思われる。個体発生が系統発生をくりかえすならば、わたしたちひとりひとりの生の起源にも〈モネラ〉は存在するはずである。
 この「生物」の名が二人のあいだで、個我とその他の生命たちとの同帰する根源にあるものを指す記号として、語り合われるたびにさまざまな意味を吸収してふくらみながら、〈対の語彙〉――二人だけのあいだで通用することばとして定着していて、賢治は死んでゆくトシ妹の耳に、必ずまた会おうねという暗号のように、ヘッケル博士のこのいみじい生物の名を、力いっぱい叫んだかもしれないと思う。

 これは、とてもロマンチックで美しい仮説だと思います。そして最近では、廣瀬正明氏も「「青森挽歌」における「ありがたい証明」とは何か」(『賢治研究』125号)において、見田氏のこの「モネラ説」に賛意を表しておられます。
 実際、「ペンネンノルデはいまはいないよ 太陽にできた黒い棘をとりに行ったよ」と題した賢治の創作メモのなかに、「ノルデは書記にならうと思ってモネラの町へ出かけていった」という一節がありますので、賢治の意識のなかにこの「モネラ」という言葉があったのは確実なのです。また、賢治の蔵書の中にヘッケルの『生命の不可思議』があったことからも、上で見田宗介氏が述べているような意味で、賢治がこの言葉を理解していた可能性も十分に大きいのです。

 しかしながら、賢治とトシが、ヘッケルの言う「モネラ」という架空の生命体について、見田氏が想像したように語り合っていたというのは、あくまで見田氏による一つの仮定にすぎず、これは何ら根拠のあることではありません。
 それに何より、賢治が死にゆくトシの耳もとで、「モネラー!!」と叫んでいるという図は、私にとってはあまりにも滑稽なものに感じられてしまうのです。あくまで私の主観にすぎないことですが、これはどうしても、厳粛な臨終の場面にふさわしい感じではありません。

 ということで、賢治がトシの耳もとで何と叫んだのかという問題に対する従来の説は、いずれも私にとっては十分に納得できるものではないのです。
 「万象同帰」、すなわち全ての現象がともに帰っていくべき対象であり、また「すべての勢力(エネルギー)のたのしい根源」であるような、「いみじい生物」とは、いったい何なのでしょうか。

 ここで、そもそも法華経に記されている世界において、最も「いみじい生物」とは何だろうかと考えてみるならば、法華経において「久遠本仏」として位置づけられている「釈迦牟尼仏」こそが、それに該当するでしょう。
 釈迦とは、インドに生まれたゴータマ・シッダールタという一人の人間であり、青年期に出家して悟りを開き、人々に対して教化と伝道を行った後、80歳で亡くなったわけですから、確かに「生物」に違いありません。
 そうすると、賢治がトシの耳もとで叫んだのは、たとえば「南無釈迦牟尼仏!」という言葉だったのでしょうか。

 これも、十分に一つの仮説としては成り立ちうると思います。しかしこの説には、一つ難点があります。
 それは、「何を本尊とすべきか」という問題に関する日蓮の考えに現れていることなのですが、他の多くの仏教宗派が、釈迦や阿弥陀や薬師や大日など、様々な仏を尊崇し、その仏像を「本尊」として礼拝しているのに対し、日蓮はこのように「仏」を拝むこと(=人本尊)は行わず、仏をはじめ万象をあらしめている根源であるところの、法華経をこそ尊ぶべきである(=法本尊)と説いているのです。
 下記は、この問題について日蓮が述べている、「本尊問答抄」の一節です。

問ふ、其の義如何。仏と経といづれか勝れたるや、
答へて云はく 本尊とは勝れたるを用ふべし、例せば儒家には三皇五帝を用ひて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
問うて云はく、然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、
答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ、私の義にはあらず 釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、まず日蓮は、「本尊とは勝れたるを用ふべし」とした上で、仏教では釈迦が最も尊いのだから「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えています。ここまでを根拠とするならば、上のように「南無釈迦牟尼仏!」と唱えることにも、正当性があるわけです。
 しかし、これに続く「ではなぜあなたは釈迦を本尊としないのか」という問いに対して、日蓮は「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」「釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり」として、釈迦ではなくて法華経を本尊とすべきだと明言しています。
 法華経によれば、釈迦など諸仏は、法華経の力によって生まれたもの(=所生)であるのに対して、法華経こそがそれらを生んだもの(=能生)なので、仏よりも法華経の方を尊ぶべきだというのです。

 したがって、「南無釈迦牟尼仏!」と叫ぶことは、たしかに「いみじい生物の名」を唱えていることではありますが、日蓮の教えに基づけば、これでは「すべての勢力のたのしい根源/万象同帰」の名前とは言えないのです。
 これが賢治の家の宗派であった浄土真宗ならば、「南無阿弥陀仏!」と唱えることは、「阿弥陀仏」という「いみじい生物の名」を呼ぶことになり、「青森挽歌」における記載とも宗教的教義とも合致するのですが、日蓮の場合は違うのです。
 それでは、日蓮の考えに基づくかぎりは、「本当に尊ぶべきもの」が「生物」であるということは、ありえないのでしょうか。

※ 

 ここで、日蓮の教義における「本尊」について見てみましょう。賢治自身が、国柱会から「御本尊」として授与されていたものは、下のような文字による曼荼羅でした。(『新校本全集』第16巻下「補遺・伝記資料篇」口絵より)

賢治が国柱会より受領した「本尊」

 これは、日蓮が佐渡配流中の1273年(文永10年)に描いた曼荼羅(「佐渡始顕本尊」)を、田中智学が模写したもので、国柱会ではこれを「本尊」として会員に授与していました。
 ここには、中央の「南無妙法蓮華経」を中心に、上段その左隣には「南無釈迦牟尼佛」、さらに左へ順に「南無浄行菩薩」、「南無分身等諸佛」、「南無安立行菩薩」が並び、反対に題目の上段右隣には、「南無多宝如来」、さらに右へ順に「南無上行菩薩」、「南無三世諸佛」、「南無无邊行菩薩」と並んでいます。この下の段には、他の菩薩や仏弟子の尊者、さらに下の段には「十羅刹女」や「鬼子母神」など女性の諸天、さらに最下段には、左に「南無妙楽大師」、「南無伝教大師」、右に「南無龍樹菩薩」、「南無天台大師」と、歴史上の僧の名も続いています。左右両端には、上段に「大毘沙門天王」と「大持国天王」、中段に梵字で「愛染明王」と「不動明王」、下段に「大増長天王」と「大広目天王」が配され、すべてを守護する形になっています。
 全体を活字で表わせば、下のようになります。

法華曼荼羅文字


 これがいったい何を表しているかというと、これは法華経全巻の中でも究極の場面と言うべき「虚空会」の情景を、日蓮が文字によって図示したものなのです。「法華曼荼羅」とも「十界曼荼羅」とも「妙法曼荼羅」とも呼ばれます。
 すなわち、「法華経見宝塔品第十一」では、説法をする釈尊(釈迦牟尼仏)の前に、突如として高さ五百由旬の巨大な美しい宝塔が地から涌き出して、空中に浮かびます。次いで、あらゆる世界から分身の仏が来集し、釈尊は宝塔の扉を開けて中に入り、そこで多宝如来と並んで座します。そして釈尊は、居並ぶ諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女など会衆をも宙に浮かせ、皆に向けて説法を行ったというのです。すべてが空中で行われたということで、これは「虚空会」と呼ばれます。
 日蓮はこの曼荼羅に、法華経に描かれたこの壮大・荘厳な世界を凝縮して表現しようとしたわけで、この図像を心に観ずることによって、人は法華経と一体になれるとされています。
 賢治も、二階の自分の部屋の壁にこの本尊を掛け、日夜この前に正座して、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて礼拝を行っていたわけです。

 さてここで、賢治がトシの臨終においてその耳もとで叫んだ言葉は、この曼荼羅に記されている内容だったと考えてみたら、どうでしょうか。

 順に唱えていくと、「南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無多宝如来、南無浄行菩薩、南無上行菩薩、南無分身諸仏、南無三世諸仏、南無安立行菩薩、南無無辺菩薩、南無普賢菩薩・・・」などということになり、最初の「妙法蓮華経」だけは経典の名前ですが、これを除けば、あとは最後まですべて「生物の名」になります。すなわち、題目に続いてここに羅列されている名は、すべてが法華経のクライマックスに参集した諸仏、諸菩薩、諸天、善神、善男善女たちであり、これこそ「いみじい生物の名」とも言えるのです。

 つまり私としては、賢治はトシの臨終の枕元において、日蓮が著した本尊たる曼荼羅を口唱したのではないか、と考えるのです。あるいは、この本尊全体を唱えるとなるとあまりにも長いので、その最上段のみを抜粋した「略式曼荼羅」を唱えたと考えてもよいかもしれません。下写真は、「〔雨ニモマケズ〕」に続けて賢治が手帳に書いた、その略式の曼荼羅です。

略式妙法曼荼羅

 ただ、この仮説を採ったとしても、最初に唱えるべき最も重要な「南無妙法蓮華経」は、やはり「生物の名」ではありませんので、全体を「いみじい生物の名」と呼ぶことには、やはり若干の問題が残ります。
 これに関しては、上の略式曼荼羅を唱えたとしても、7つの名前のうちで6つは「生物」です。それに何より賢治にとっては、トシの臨終ほど重要な場面において、「唱題をする」というのはあまりにも当然の自明のことなので、ここにはあえて記さず、その後に続けた諸仏・諸菩薩の名前の方を「いみじい生物の名」として特記した、と考えることもできます。

 このように、もしも賢治がトシの臨終において「本尊曼荼羅を口唱する」という行動をとったとすれば、その意図は何だったのか、このような行為の宗教的な意味は何なのか、ということが次に問題になります。
 これについては、江戸時代初期の日蓮正宗の「中興の祖」と言われる日寛(1665-1726)が著した「臨終用心抄」という文書が、参考になるように思われます。日寛はこの文書の中で、「臨終の断末魔の苦しみで心が乱れないためには、どのようにしたらよいか」という問いに答えて、次にように記しています。

常に本尊と我と一躰也と思惟して口唱を励むべし。御書十四四十七実に己心と仏心と一心なりと悟りなば臨終を礙ふるべき悪業も有らず、生死に留るべき妄念も有らず云云

 すなわち、臨終に際しては「常に本尊と自分とが一体であると念じて、(題目の)口唱を励むべし」というのです。しかし現実には、トシはその最期において、自ら「南無妙法蓮華経」と唱える力はもはや残っていませんでした。しかしそのかわりに、賢治が「本尊」の内容を高らかに口唱してそれをトシの耳から入れてやることによって、トシと本尊を一体化させようと試みたのではないかと、私は思うのです。
 日寛の「臨終用心抄」にはまた、病人がまさに臨終を迎える時にしてやるべきこととして、次のような記述もあります。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 「青森挽歌」や他の作品の記述を見るかぎりでは、賢治はトシの臨終において、上に書かれているように「本尊を病人の目の前に向へ」ということは、行わなかったようです。周囲は全員が浄土真宗の門徒であるという状況に、遠慮したのかもしれません。しかしそのかわりに、「本尊の内容を口唱する」ということをしたのではないかと、私は考えてみるのです。

 そしてまた、上に引用した後半部に、「すでに息が絶えきっても一時ばかり耳へ唱え入れるように、死んでも底心というものがあるし、魂は去ってしまうわけではない」と書かれているところも、「青森挽歌」における賢治の考えや行いを彷彿とさせるものがあります。すなわち賢治はこの時、トシの耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい」叫んで「唱へ入れ」ましたが、それに応えてトシが「二へんうなづくやうに息をした」ことを、何度も自分に言い聞かせるかのように回想します。

たしかにあのときはうなづいたのだ
そしてあんなにつぎのあさまで
胸がほとつてゐたくらゐだから
わたくしたちが死んだといつて泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

 ここに描かれているトシの様子は、「死ても底心あり或は魂去りやらず」という記述に、まさに呼応しているかのようです。

 それからあと一つ、念のために考えておきたいことがあります。それは、私がここで想定したように「本尊の内容を口唱する」ということを、日蓮を信仰する人は一般的に行うものなのか、という問題です。本来は、日蓮が著した本尊の曼荼羅は、目で見て心に観ずることによって尊崇するものであり、声に出して唱えるために書かれたものではないでしょう。
 これについては、浅学の私にはまだよくわからないのですが、しかし賢治が「雨ニモマケズ手帳」に残している下の記載が、一つのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

「雨ニモマケズ手帳」p.155-156

 ここにおける配列は、先に引用した「〔雨ニモマケズ〕」末尾のものとは異なっています。すなわち、本来は「南無妙法蓮華経」は中央に位置しなければならないのに、ここでは右端にあり、これに続いて、「南無上行菩薩」、「南無浄行菩薩」、「南無無辺行菩薩」、「南無安立行菩薩」となっています。
 もとの略式曼荼羅と比較すると、「南無釈迦牟尼仏」と「南無多宝如来」が抜けてはいますが、題目→上行→浄行→無辺行→安立行という順序は、題目から始まって、右、左、右、左となっており、これは曼荼羅に配された菩薩の名を、「口唱する」順序になっていると思われるのです。
 すなわち、賢治は手帳のこの2ページを、曼荼羅を口唱しながら書いたと考えることができるのです。
 つまり賢治は、本尊の曼荼羅の少なくとも一部を、口唱することがあったのではないかと推測できるわけです。

 ということで、「青森挽歌」に描かれたトシの臨終において、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ「いみじい生物の名」とは、日蓮が著した本尊の曼荼羅の内容だったのではないか、という私の想像について書いてみました。

 最後に、鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「雨ニモマケズ」の大阪コレギウム・ムジクム合唱団による演奏を貼っておきます。
 この合唱曲では、1:04あたりからと、9:21あたりからの二箇所で、上にも引用した略式十界曼荼羅の「南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩」という「いみじい生物の名」が、歌われるのです。

「噴火湾(ノクターン)」のFuneral march

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 トシの死の翌年のサハリン旅行における最後の作品が、「噴火湾(ノクターン)」です。
 この作品における賢治は、噴火湾(内浦湾)に沿って走る列車に乗って、車窓から夜明けの景色を眺めていますが、心の中はやはりトシのことでいっぱいです。
 詩の最後、すなわちこの悲しみの旅における賢治の最後の言葉は、次のように結ばれます。

噴火湾のこの黎明の水明り
室蘭通ひの汽船には
二つの赤い灯がともり
東の天末は濁つた孔雀石の縞
黒く立つものは樺の木と楊の木
駒ケ岳駒ケ岳
暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる
そのまつくらな雲のなかに
とし子がかくされてゐるかもしれない
ああ何べん理智が教へても
私のさびしさはなほらない
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)
たとへそのちがつたきらびやかな空間で
とし子がしづかにわらはうと
わたくしのかなしみにいぢけた感情は
どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ

 北の最果てへの旅を終えようとするこの時にも、やはり悲しみに沈む賢治の心は癒えていなかったということが、ここに如実に表れています。
 ちなみに、この箇所で「室蘭通ひの汽船」の二つの灯火が見えていることから、以前に私は「噴火湾で列車から汽船を見る」という記事において、賢治が乗っていたのは「急行2列車」で、これはおそらく午前4時14分頃のことであり、場所は「野田追」駅と「落部」駅の中間で、列車が海岸沿いに出たあたりではないかと推測してみたことがありました。
 しかし、今日取り上げるのはそこではなくて、作品の中ほどあたりの、次の箇所です。

一千九百二十三年の
とし子はやさしく眼をみひらいて
透明薔薇の身熱から
青い林をかんがへてゐる
フアゴツトの声が前方にし
Funeral march があやしくいままたはじまり出す

 ここに出てくる'Funeral march'とは、「葬送行進曲」のことです。もちろん、賢治のイメージにあるのは、前年のトシの「葬送」でしょう。
 花巻に帰った後の8月31日に書かれた「雲とはんのき」にも、「これら葬送行進曲の層雲の底・・・」という言葉が出てきますから、この時期の賢治の心象風景の BGM としては、ずっと何らかの Funeral march=葬送行進曲が、鳴り続けていたのでしょう。
 ところで、この「葬送行進曲」という言葉が、たんに象徴的な意味で使われているのではなくて、賢治にとって何かある特定の曲を指しているという可能性は、彼がクラシックレコードの蒐集家であったことを思えば、十分にありうることです。「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という描写の具体性も、ここで賢治の心の中には、実際にメロディーが流れていたのではないかと思わせます。

 そして、『宮澤賢治の聴いたクラシック』(小学館)の著者の萩谷由喜子氏も、そのように考えられたようです。

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萩谷 由喜子 佐藤 泰平 クリストファ・N. 野澤

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 この本は、賢治とクラシック音楽の関わりについての詳しい解説とともに、当時のSPレコードから復刻した珍しいCDが2枚も付いているという素晴らしいものです。
 そのCDには、「噴火湾(ノクターン)」に登場する'Funeral march'の推定曲として、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番「葬送」第3楽章の吹奏楽編曲版が収録されていて、本文p.72には次のような解説が付けられています。

賢治の心象スケッチ『春と修羅』には『オホーツク挽歌』として一挙収載された5編の口語詩がある。その5編は大正11年11月27日に24歳で世を去った最愛の妹トシを悼む一連の挽歌だが、その最終詩『噴火湾(ノクターン)』に「ファゴツトの聲が前方にしFuneral march があやしくいままたはじまり出す」という詩句がある。「ファゴツトの聲が前方にし」というヒントから、詩の中の「Funeral march」をピアノ・ソナタ第12番の第3楽章のバンド演奏盤と推定し、ヴェルセラ・イタリアン・バンドの録音を収録した。

 実際、ベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章は、作曲者によって'MARCIA FUNEBRE'と題されている、クラシック音楽の中でも代表的な葬送行進曲の一つです。ここに収録されているその吹奏楽編曲版は、CDとして世界初復刻ということでとても貴重なものなのですが、ただ私としては、これを「噴火湾(ノクターン)」の'Funeral march'だと推定するには、少なくとも次のような2つの問題点があるように思うのです。

 問題の一つは、確かにこの吹奏楽編曲にはファゴットも使われているようですが、低音部は常に金管楽器とユニゾンで重ねられており、「ファゴットの音色だけ」が聴こえるような箇所は、一か所も存在しないのです。したがって、まず「フアゴツトの声が前方にし」て、次いで「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という、作品中の描写と具体的に対応するような部分は、この演奏には出てきません。
 しかし、「フアゴットの声」とか、「いままた…はじまり出す」とかいうこの箇所の賢治の描写はとても具体的ですので、私にはどうしても、これは実際の音楽の進行と対応しているのではないかと感じられるのです。

 問題点のもう一つは、この吹奏楽編曲版のベートーヴェンのピアノソナタ第12番第3楽章のSPレコードを、生前の賢治が聴いていたという証拠がないことです。
 賢治が実際にどんなレコードを聴いていたのかということについては、(1)賢治が遺品として残したレコード、(2)賢治が友人に贈ったレコード、(3)羅須地人協会時代に作った「レコード交換用紙」に賢治自身が記載したレコード、(4)友人等によるよる証言、という形で知ることができますが、このいずれにも、上記のレコードは含まれていないのです。もちろん、ここに含まれていないからと言って、賢治がこれを持っていた、あるいは聴いたことがあったという可能性を否定することはできませんが、この説をとるためには、そういう一つの「仮定」を追加する必要が出てくるわけです。

 これに対して私自身の考えは、「噴火湾(ノクターン)」における'Funeral march'とは、同じベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第2楽章なのではないか、というものです。
 この楽章も、作曲者自身によって、'Marcia funebre'(=葬送行進曲)と、イタリア語でタイトルが付けられています(下図)。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章冒頭

 そして、生前の賢治がこの曲を実際に聴いていたことを、親交の深かった斎藤宗次郎氏が書き記しています。下記は、『四次元』第二巻第九号(昭和25年10月)に収載された斎藤宗次郎「懐しき親好」の一部です。(『宮澤賢治研究資料集成』第7巻p.214)

 何時の頃か忘れたが、賢治さんが始めて蓄音機を求めた時、私は妻とと共に賢治さんに招かれ、二階の広い室の一隅で父君と四人頭を聚めて色々のレコードを聴いたことがある。此頃の賢治さんは、音楽に対する興味其観賞の力が大いに進んで居られたであろう。名曲に魅せらるる様子は感心の至りであった。其後私も蓄音機を求めたので、賢治さんはベートーヴエンのクロイツエルソナタや第三第七交響楽などのレコードを借りに見えたこともあり、時には令弟を伴つて来て、私の求康堂の店頭に腰を下し、ヘンデル・シユーベルト・チヤイコフスキー・シヤリアピンなどのレコードを聴き楽んで帰られたこともあつた。

 すなわち、上の分け方で言えば「(4)友人等による証言」によって立証されるわけですが、賢治はベートーヴェン交響曲第3番のレコードを、少なくとも斎藤宗次郎に借りて聴いていたことは、確かなのです。

 すると次の課題は、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」というように音楽が進行する箇所が、この曲に実際に存在するのかということです。
 結論から言えば、それは第2楽章の43小節目から始まるファゴットのソロに導かれて、やがて50小節目からオーボエによる第一主題(すなわち葬送行進曲の主題)が現れるところだろうと、私は考えています。
 下に、その箇所の楽譜を引用します。

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章2

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章3

ベートーヴェン交響曲第3番第2楽章4

 上の1頁目および2頁目で、赤い色を付けてあるところが、「フアゴツトの声が前方にし」に相当する部分です。1頁目の最後の2小節からファゴットのソロが始まり、これは2小節後からは他の木管楽器と重ねられますが、さらにその2小節後には、クラリネットとの美しいユニゾンになります。
 そして、2頁目の最後の青い色を付けたところから、オーボエに第一主題(葬送行進曲の主題)が再び現れ、3頁目へと続きます。つまり、ここが「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」に相当するのです。(以上、引用楽譜はいずれも全音楽譜出版社のポケットスコアによります。)

 音楽の流れとしてはこうなっているのですが、楽譜で見ていただくよりも「百見は一聞に如かず」ということで、この箇所の実際の演奏をお聴きいただきましょう。
 下の演奏は、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による、「ベルリンフィルハーモニー創立100周年記念演奏会」(1982)のライブです。第2楽章が始まる直前(15:05)から再生されるように設定してありますが、問題のファゴットのソロは、17:59頃から始まります。

 この17:59から、ファゴット高音域の、独特の哀愁を帯びた調子で推移的な旋律が奏でられ、そこにフルートや他の木管が加わり、一瞬クラリネットだけが残って、またファゴットが繊細に寄り添います。
 そして18:29頃からは、オーボエが再び第一主題を奏で始めます。この少し前の17:36には、流麗な長調の第二主題が導入され、いったん曲想が転換した後ですから、ここで再び短調の第一主題が現れた時の印象は、まさに「Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という表現が、絶妙に当てはまる感じがします。

 以上、これは賢治が実際に聴いていた曲であること、また上のように作品中の描写と美しく対応している箇所も存在していることから、私としてはこれこそが、「フアゴツトの声が前方にし/Funeral march があやしくいままたはじまり出す」という部分だろうと、自分では深く納得している次第です。

 余談ながら、上のベルリン・フィルのライブにおいて、オーボエの首席を務めているのはローター・コッホ、クラリネットはカール・ライスター、そしてファゴットはギュンター・ピースクという面々であり、私としてはベルリン・フィルの木管セクションを「超人集団」として崇拝していた学生時代を思い出す、懐かしい演奏です。
 カラヤンによる端整な造型、弦楽器の圧倒的な力量とも相まって、これはベートーヴェン「英雄」の歴史的名演の一つとも言える記録ではないかと、今回YouTubeで視聴して感じました。

《ヘッケル博士!》という声に関する私見(2)

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 お正月の記事では、佐藤恵子著『ヘッケルと進化の夢』という本についてご紹介しましたが、正月休みにこの本を読みながら、私はあらためて「青森挽歌」に登場する《ヘツケル博士》の意味について考えてみました。すなわち、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という一節は、いったいどういう意味なのか、「そのありがたい証明」とは、いったい何の証明なのか、という問題です。

 これについては、もう10年以上も前に、「《ヘツケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事で、その時点での私の考えを書いてみたことがありました。当時の論旨を要約すると、「そのありがたい証明」とは、ヘッケルが提唱した「反復説」、すなわち「個体発生は系統発生を反復する」という学説の証明であり、賢治の考えでは、自分がトシと「通信」を交わすことによって仏教の「輪廻転生説」を検証することができれば、それは「輪廻転生説の科学化」とも言える「反復説」を証明することにもつながる、というものだったのではないかということでした。
 一方、今年のお正月以来私は、この箇所についてまた違った考えをするようになってきたので、今日はそのことを書いてみようと思います。

 まず、以前に「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事において、この作品を<I>から<V>までに区分した中から、ヘッケル博士の登場する<III トシの死の状況の具体的回想>の部分を、下記に掲げておきます。右側に行番号を付けていますので、以下の説明中で適宜ご参照下さい。

「青森挽歌」<III>

 作品のこの部分では、トシの臨終の様子が具体的に回想されるわけですが、ここで賢治はただ手当たり次第にその時の出来事を思い出しているのではありません。
 内容を見ていただいたらわかるとおり、86行目では耳が聞こえなくなったこと、93-95行目では目が見えなくなったということをまず確認し、97-98行目では、その後もトシはこの世の幻視や幻聴を感じたのではないか、という推測を述べています。
 つまりここで賢治は、トシの臨終前後の「感官」の状態について、意識的に記憶を整理しているのです。

 そして、このようにしてトシの感官の状態を振り返った上で、賢治が本題として持ち出すテーマは、彼が「いみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき」に、はたしてトシがそれに対して「うなづいた」のか、という問題です。賢治はこれについて、執拗なまでに考えをめぐらします。
 すなわち、まず104行目では、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」と、事実をそのまま記していますが、次に108行目では、「けれどもたしかにうなづいた」と、彼女が「うなづいた」ことを断定的に述べます。そして、「ヘッケル博士」への言及をはさんで119行目では、実に三度目に「たしかにあのときはうなづいたのだ」と記すのです。
 この一連の流れにおいて、「うなづいた」という言葉を畳みかけるように繰り返して、作品の声調が高まってくるところは、「青森挽歌」前半部における一つのクライマックスを形づくっていると言えるでしょう。

 そして、賢治がこれほどまでに、「トシが『うなづいた』かどうか」という問題にこだわっている理由は、この問題が、作品全体を貫くテーマであるところの「トシは天界に往生したのか?」という問題に対して、重要な意味を持っていたからだと思われます。
 すなわち、トシの「臨終正念」に関する問題です。

 「臨終正念」とは、「邪念のない正しい信仰を持って臨終を迎える」ということで、人は最期の時にこれが正しくできておれば、浄土真宗ならば浄土への往生が、日蓮系の宗派ならば天界への往生が、かなえられるという教えになっています。
 賢治が、トシの臨終に際してこの「臨終正念」をはっきりと意識していたであろうことは、早くも1976年に杉浦静氏が、「賢治文学における「死」のイメージと<臨終正念>」(『近代文学論』7号)という論文において指摘されました。
 杉浦氏は、日蓮が臨終正念について触れた書簡「妙法尼御前御返事」を引用し、人の死に際の顔色が白い場合は天に往生するのだと述べていることを、紹介しておられます。

 天台云はく「白々は天に譬ふ」と。大論に云はく「赤白端正なる者は天上を得る」云云。天台大師御臨終の記に云はく「色白し」と。玄奘三蔵御臨終を記して云はく「色白し」と。一代聖教の定むる名目に云はく「黒業は六道にとゞまり、白業は四聖となる」と。此等の文証と現証をもってかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 杉浦氏によれば、賢治が「無声慟哭」においてトシの顔貌や匂いについて記しているのも、あるいは「青森挽歌」後半部では《おいおい、あの顔いろは少し青かつたよ》とか《…あのときの眼は白かつたよ/すぐ瞑りかねてゐたよ》 などと、その顔色を中傷する「魔」の声が入るのも、賢治が「臨終正念」という観点から、トシの最期の顔の相を特に気にかけていたからです。

 ではここで、トシにおける顔の肌の色が実際にどうであったかを確かめてみると、「青森挽歌」105行目に「白く尖ったあごがゆすれて…」とあるように、幸いなことに白かったのです。
 そうであれば、日蓮の「妙法尼御前御返事」を読んでいたであろう賢治は、安心してトシの天界往生を信じてもよいはずです。ところが、それでも賢治が安心しきれなかったのは、実は日蓮自身が臨終正念において本当に重視していたのは、顔色という外面的な事柄だけでなく、心や行いにおける信仰のあり方だったからだと思われます。下記は、やはり「妙法尼御前御返事」からの引用です。

 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととはねさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。(『平成新編 日蓮大聖人御書』より)

 すなわち、臨終において「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら亡くなった者は、成仏間違いないというのです。
 もちろん賢治も、このことは強く意識していたはずで、彼が死に近いトシに題目を熱心に唱えさせていたことを、トシに看護婦としてついていた細川キヨという女性が、森荘已池氏に語っています。

 豊沢町にうつってくると、やっぱり目にみえてよくありませんでした。古い家で、陰気でしたし、その上カヤをつってびょうぶでかこいますから、とてもくらくて穴ぐらにでも入ったようなのです。賢さんはいっしょにうつってきて、二階のへやにおられました。そしてときどき二階からおりてきては、ナムメョウホウレンゲキョウ何に彼にうんぬんと大きなこえでとなえて、としさんにも寝たまま手を合わさせて、ナムメョウホウレンゲキョウととなえさせるのでした。
 私は、まったくハラハラとして気が気でありませんでした。とても弱っている病人に、あんなマネをさせてはよくないと思ったのです。うしろから、小指でつついただけで、つんのめってしまって倒れるような病人があるものです。としさんはそれと同じことです。でも信仰のためなら、それもしかたのないことだろうと思って黙っておりました。お父さんお母さんとちがう信仰に一生けんめいなのですから、付添いの私なんか何かいえる筋合いのものでもありませんでした。(森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』より)

 このように、衰弱したトシに相当の無理をさせながらも、「南無妙法蓮華経」を唱えさせ続けていた賢治でしたが、しかし彼女のまさに最期の場面においては、題目を唱えさせることができなかったのだろうと思われます。
 もしも、トシが臨終に際して唱題を行ったとすれば、賢治はその事実を「青森挽歌」の上掲の部分に記さないはずはありません。ところが、テキストにはそのようなことは何も書かれておらず、それに作品中の記述を読めば、賢治は実際のところトシの呼吸と脈が止まってしまってから後に、その枕元へ「はしつて行つた」のです。

にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた

 愛する妹の死の瞬間、すなわち「呼吸がとまり脈がうたなくな」ったまさにその時点に立ち会えなかったことは、賢治にとっては悔やんでも悔やみきれないことだったろうと思います。
 賢治が駆けつけた時、もはや意識を失ったトシに、自ら題目を唱えさせることは不可能でした。

 そして、その時に賢治がとった行動は、トシの「耳もとで」、「万象同帰のそのいみじい生物の名を/ちからいつぱいちからいつぱい叫」ぶということでした。私が思うには、賢治のこの行動は、「本人自身が題目を唱えつつ臨終を迎える」という、臨終正念のための最善の方法を実行できなかったため、それに代わる次善の策として、行われたものだったのではないでしょうか。
 先日、「万象同帰のそのいみじい生物の名」と題した記事において私は、この時に賢治が叫んだのは「生物の名」であるということから、日蓮の描いた「本尊」に記されている諸仏や諸菩薩の名前ではないかと推測してみました。後で触れる日寛の「臨終用心抄」の中で、臨終の際には「本尊と我と一躰也と思惟して…」ということを重視していることにもよります。しかし本日の議論においては、これは鈴木健司氏らが考えておられるように、賢治が叫んだのは「南無妙法蓮華経」だったと考えても、同じことです。
 いずれにせよ賢治はこの時、トシの天界往生を助けようとして、とにかくそのために効力があるとされる言葉を、力の限りに叫んだのだと思います。


 しかし、たとえそれがいくら偉大な力を持った言葉だったとしても、まだ賢治にとっては問題が残ります。
 すでに少し前に耳が聞こえなくなり、そして今や呼吸も脈も止まってしまい、明らかに「死」の境を越えてしまったように見えるトシ(の遺体)に対して、今さら言葉を聴かせてやることに、果たして意味はあるのでしょうか?

 この問題に関しては、「万象同帰のそのいみじい生物の名」でも引用した日寛の「臨終用心抄」という文書に、賢治にとっては一縷の望みが記されています。

一、唯今と見る時本尊を病人の目の前に向へ耳のそばへより臨終唯今也、祖師御迎ひに来り給ふ可し、南無妙法蓮華経と唱へ給へとて病人の息に合せて速からず遅からず唱題すべし、已に絶へ切つても一時ばかり耳へ唱へ入る可し、死ても底心あり或は魂去りやらず死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し。

 すなわち、命が「已(すで)に絶へ切つても」、題目を「一時ばかり耳へ唱へ入る可し」ということを、日寛は推奨しているのです。何となれば、「死ても底心あり或は魂去りやらず」とのことで、人間は死んでもその深い奥底には「底心」というものがあり、魂はまだ去らないのだというのです。そして、「死骸に唱題の声聞かすれば悪趣に生るる事無し」とも述べて、死んでからでも唱題を聞かせれば、「悪趣」(=地獄・餓鬼・畜生)に転生することはないと、保証してくれています。
 この、「已に絶へ切つても…耳へ唱へ入る」という行為こそ、まさにトシの息が絶えた後に賢治が行った、「その耳もとで…ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」という行為そのものであり、この箇所は、彼がとった行為の有効性を、根拠づけてくれるものだと思います。

 「青森挽歌」のテキストでは、上掲の<III トシの死の状況の具体的回想>の後半部のほとんど、すなわち120行目から139行目までずっと、臨終後のトシに日寛の言う「底心」が存在したということを、何とかして確かめようとする賢治の思索が、縷々記されています。
 すなわち、「わたくしたちが死んだといつて泣いたあと/とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ/ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで/ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない」とか、「たしかにとし子はあのあけがたは/まだこの世かいのゆめのなかにゐて/落葉の風につみかさねられた/野はらをひとりあるきながら/ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ」という箇所などがそうです。
 このように、死後のトシにも「底心」が残っていて、「魂」の活動がまだかすかにでも続いていたのだとすれば、賢治が耳もとで「ちからいつぱいちからいつぱい叫んだ」ことにも、何らかの意味があったことになるわけです。


 さてこのように考えれば、賢治はトシの臨終への遅刻を挽回して、彼女の天界往生を助ける行為ができたのではないかと思われるのですが、しかしご存じのように賢治という人は、上記ような教えを信ずる「宗教者」としての側面とはまた別に、「科学者」としての側面も兼ね備えていました。科学者として合理的に考えてみると、日寛が言うような理屈は、かなり危ういものにも感じられます。
 科学者・賢治は、ここでまだトシの天界往生を安心して信ずるまでには、至らなかったかもしれません

 ところがここに、「生」と「死」を隔てる深い溝を強引にも乗『生命之不可思議』り越えて、生物と無生物、あるいは有機体と無機体というものは、本来はシームレスに繋がっており、両者は連続しているのだという説を唱えた科学者がいました。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、その大胆な「一元論」によって一世を風靡したドイツの生物学者、エルンスト・ヘッケルです。

 生前の賢治は、ヘッケルの代表的著作の“Die Lebenswunder”(邦訳『生命の不可思議』)を、原書で持っていました。
 下記は、『生命之不可思議』上巻(大日本文明協会事務所刊,1915)の、「第十三章 感覚」の一部です。

 有機体を分析する時、無機自然物体に発見せられざる原素を見ることなし。吾人は有機体の運動は、無機体と同じく重学の法則に従ふを見る、又、吾人は生活物質に於ける力の変化、即ちエネルギー代謝は、無機物に於けると同様に生じ且同じ刺激に依りて惹起せらるゝを信ず。以上の経験よりして、吾人は『刺激の知覚』(客観的意味に於ける感覚、及び主観的意味に於ける感情)も一般に両者に存在すると結論せざるべからず。総ての自然物体は、或意味に於て悉く『感覚を有す』。一元論が『死せる』物の一部を無感覚と認むる唯物論的解釈と相異する点は、物質に対する此のエネルギー説的理解に存す。

 すなわち、ヘッケルが提唱した「一元論」に立てば、「死せる物」も、生物と程度こそ違え、「感覚を有す」のです。このように、生物と無生物を連続した存在としてとらえる考え方は、やはり同様のアニミズム的な感性を持っていた賢治にとっては、共感するところも多かったのではないでしょうか。
 そして、もしもヘッケルが言うように「生ける者」と「死せる物」の活動(エネルギー代謝)が連続しているのならば、ついさっきまで生きていたトシが息絶えた後にも、何らかの「感覚」があり、それ相応の「意識」があっても、おかしくないように思えます。

 さて、ここでついに問題の箇所に到達しました。「青森挽歌」109-111行目に出てくる、《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉の意味するところは、このようなヘッケルの考え(=一元論)のことであり、これが真実であるということを確認することこそが、「そのありがたい証明」なのではないかと、私は考えるのです。

 本文中でこの言葉は、臨終直後のトシが賢治の叫びに応えて、「二へんうなづくやうに息をした」(104行目)、「けれどもたしかにうなづいた」(108行目)と続き、彼女の感覚や運動がまだ保たれていたと信ずる気持ちが、頂点まで高まった瞬間に現れます。そしてこの言葉のさらに少し後で、賢治は三たび「たしかにあのときはうなづいたのだ」(119行目)と繰り返すのです。
 すなわち、このテキストの構造からすると、ヘッケルの「ありがたい証明」とは、「賢治の声がトシに届き、トシはそれにうなずいたに違いない」という問題の、ど真ん中に関わっているはずです。そして、ヘッケルの「証明」を上記のように理解すれば、これは上記の問題の解決につながるのです。

 もしもトシからの「通信」が得られて、あの時たしかに彼女は「うなづいた」のだということが確認できれば、それはヘッケルが言うところの「無機体も感覚を有す」という説の「証明」にもなると賢治は考えたのではないか、これがこの箇所に関する私の解釈です。
 そして、114-118行目の、(宗谷海峡を越える晩は/わたくしは夜どほし甲板に立ち/あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり/からだはけがれたねがひに みたし/そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)という箇所に描かれている賢治の決意は、この「挑戦」によってトシとの「通信」を実現しようということだと考えます。

 ただ、このように自分の妹の天界往生を確信するという目的のために、ヘッケルの説の「証明」をしようというのは、賢治の倫理観からするとあまりに利己的な動機にもとづいたものと言えるでしょう。このヘッケル博士に対する呼びかけが、「凍らすやうなあんな卑怯な叫び声」という風に否定的に位置づけられているのはこのためでしょうし、また宗谷海峡での挑戦の動機が、「けがれたねがひ」と表現されているのも、同じ理由によると思われます。
 作品の最後で、《けつしてひとりをいのつてはいけない》として現れる言葉の伏線が、すでにここにあるとも言えます。

 ところで、この《ヘツケル博士!/わたくしがそのありがたい証明の/任にあたつてもよろしうございます》という言葉は、二重括弧《 》で括られていますから、「「青森挽歌」の構造について(1)」で述べたように、これは賢治の潜在意識の底から発せられ、彼にとっては「幻聴」として体験された言葉と思われます。
 賢治としては、臨終のトシが自分の叫んだ言葉にうなずいてくれたと信じたい、そしてその天界往生を信じたい、という願望が非常に強かった一方で、そんなに自分の妹の幸せばかりを祈ってはいけないとして、そういう思いを抱くことに対する内的な禁止・抑圧も、また強かったのだろうと思います。このように、自分の心の中に激しい二律背反が存在する時に、一方を自我から切り離して(=解離)自分の外部に投影し、あたかも外から声が聴こえるような体験が起こるということがあります。
 これが、この《ヘツケル博士!…》という言葉が、この時の賢治にとっては「幻聴」として感じられたことの原因だったのだろうと、私は思っています。

 以上のような、賢治が「青森挽歌」において抱えていた問題群と、その解決のための典拠を図にすると、下記のようになります。

「青森挽歌」の問題群

 トシの天界往生の問題は、右側の様々な論拠を参照しつつ段々と下の問題に置き換えられていき、最下段でヘッケルが説くように無機体にも感覚があるのか、という問題に行き着きます。
 もしもこのヘッケルの学説が「証明」できれば、今度は左側を段々と昇って、まずこれは臨終直後のトシが賢治の声を知覚できたことの尤もらしい説明となり、次にそれはトシが「うなづいた」ことを根拠づけ、すると臨終時のトシは「本尊」(または「題目」)と一体であったことになり、これはすなわち「臨終正念」ということであり、最後にトシは天界往生したという結論が導かれる、というわけです。

 なお、右側に並べている論拠のうち、日蓮の書簡とヘッケルの著書は、確かに賢治は読んでいたと思われるのですが、日寛の「臨終用心抄」という文献は、日蓮系の教団においては重要なもののようですが、賢治が読んでいたという証拠は何もありません。
 ただ、ちょうど「幾何」の問題を解く際に適当な「補助線」を引いてやると筋道がきれいに見えてくるように、「青森挽歌」が孕んでいる数々の謎に対して、この「臨終用心抄」という足場を置くと、全体が論理的に繋がるように見えてくるのです。

 最後に、上の図を動画にしてみたものを下に載せておきます。「青森挽歌」の前半部において、賢治の心の底にあった理屈の流れを表そうとしたものです。

「青森挽歌」前半部のフローチャート

あいつは二へんうなづくやうに息をした

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 先日も考えてみた、「青森挽歌」の前半部のクライマックスとも言うべき部分を、また下記に引用します。

 《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》
さう甘へるやうに言つてから
たしかにあいつはじぶんのまはりの
眼にははつきりみえてゐる
なつかしいひとたちの声をきかなかつた
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしつて行つたとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
わたくしがその耳もとで
遠いところから声をとつてきて
そらや愛やりんごや風、すべての勢力のたのしい根源
万象同帰のそのいみじい生物の名を
ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき
あいつは二へんうなづくやうに息をした
白い尖つたあごや頬がゆすれて
ちいさいときよくおどけたときにしたやうな
あんな偶然な顔つきにみえた
けれどもたしかにうなづいた
   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》
 仮睡硅酸の雲のなかから
凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……
 (宗谷海峡を越える晩は
  わたくしは夜どほし甲板に立ち
  あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
  からだはけがれたねがひにみたし
  そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)
たしかにあのときはうなづいたのだ

 賢治がトシの臨終の前後の様子を細かく想起し、彼女の「感官」や「意識」がどのような経過をたどっていったのかということを、必死になって跡づけようとしているところです。
 トシの死からは、すでに8か月以上も経った時点での心象スケッチですが、実に詳細に記されていることに驚かされます。きっと賢治は、トシの死からこの方ずっと、何度も何度もこの時の情景を思い返さずにはいられず、これはその後もまるで目の前で繰り広げられる情景のように、ずっと心に焼き付いていたのでしょう。
 今日は、この記録の素晴らしい克明さを頼りにしつつ、この時のトシの状態について、少し医学的に考えてみようと思います。

 まず、上記引用の最初の、《耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい》という言葉から推測されるトシの病状に関しては、以前にも「耳ごうど鳴って・・・」という記事に書いてみたことがありました。
 下の図(Wikimedia Commons より)は耳の構造を表したものですが、喉の奥(咽頭部)と耳の奥(鼓室)は、「耳管」と呼ばれる細い管でつながっています。この管はふだんは閉じているのですが、唾を飲み込んだ際などには一時的に開くので、飛行機で高い空を飛んでいる時などに、鼓室内と鼓膜の外に気圧差ができて耳が詰まったような感じになった際に、唾を飲み込むと解消するのは、この耳管を空気が通って両側の気圧が同じになるからです。

耳の構造

 さて、肺結核になると、結核菌は痰とともに肺から喀出されて、喉の奥(咽頭部)にたくさんたまりますが、その菌は咳をした時などに咽頭部から耳管を通って、鼓室に入り込んでしまいます。そして結核菌は、この部分にも病巣を作ることになり、これを「中耳結核」と言います。中耳結核は、最近では非常に稀になっていますが、戦前には肺結核の患者にかなりの割合で合併していたと言われています。
 中耳結核によって引き起こされる症状としては、蝸牛など内耳の部分の障害によって徐々に耳が聴こえにくくなる、「進行性感音性難聴」が典型的とされています。一方、鼓膜や鼓室内の組織も結核菌によって侵されていますから、やはり咳をした時などに、鼓膜が破れたり、鼓室内で出血が起こったりすることもあります。この場合は、突然に耳が聴こえなくなるのです。

 トシの場合は、「耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい」と言っていますから、ここでわかるのは、トシには急に「ごう」という音が聴こえたこと、そしてその音ともに、耳が全く聴こえなくなったということです。
 「ごう」と鳴ったというのは、この時に鼓膜が破れるか鼓室内で出血が起こるか、何かそういう突発的な事態が起こったということであり、そのどちらかが起こったとすれば、以後そちら側の耳は聴こえなくなってしまうでしょう。これが、トシの耳が聴こえなくなった時に起こっていた事態だと思われます。
 ただし、耳は左と右と二つありますから、「さつぱり聞けなぐなつたんちやい」となるためには、両耳ともに聴力が失われている必要があります。両側の耳で、先ほど述べたような鼓膜穿孔あるいは鼓室出血が同時に起こるということは、確率的に考えにくいですから、あらかじめ片方の耳は感音性難聴などで聴力が消失していた上に、まだ聴こえていたもう一方の耳にも、この時に突然の鼓膜穿孔か鼓室出血が起こったと考えるべきかと思います。

 さて、以上はすでに記事にしていたことのおさらいでしたが、本日ここで考えてみたいのは、冒頭の引用の19行目に記されている、「あいつは二へんうなづくやうに息をした」という部分についてです。
 先日の記事でも触れたように、この時のトシの「うなづく」動作は、賢治が彼女の天界往生への希望を託した「証し」として、作品中でも非常に重要視されています。「二へんうなづくやうに息をした」」、「けれどもたしかにうなづいた」、「たしかにあのときはうなづいたのだ」と、三度にもわたって思い返されたこの動作は、実際にはどういうものだったのでしょうか。
 その13行前では、「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれているのに、ここでまた「うなづくやうに息をした」とは、いったいどういうことだったのでしょうか。

 結論から申し上げると、この時トシが「うなづくやうに息をした」というこの呼吸の仕方は、「下顎呼吸」というものだったのではないかと、私は考えています。
 「下顎呼吸」というのは、一般的には人が亡くなる間際の数分間くらいに見られる、通常とは異なった呼吸パターンのことで、「死戦期呼吸」とも呼ばれます。たとえば、読売新聞の医療サイト「yomiDr.(ヨミドクター)」の記事「「呼吸停止」が別れの時ではない」には、次のように説明されています。

 その最後の呼吸は、下顎を大きく上げることから「下顎呼吸」と呼ばれます。下顎呼吸を数分続けた後、最後の呼吸は人によってそれぞれの様態がありますが、目を僅かに開いたり、ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します。

 賢治は「うなづくやうに息をした」の次の行に、「白い尖つたあごや頬がゆすれて…」と書いていますが、これは上の yomiDr.の記事で「ひときわ大きく下顎を上げたりしたのち、呼吸が停止します」と書いてある現象に相当すると思われます。
 その直前にトシの耳もとで大きく叫んだ後、何かその反応がないかと懸命に見つめていた賢治にとっては、このようなトシの呼吸の様子が、「うなづくやうに息をした」と見えたとしても、何の不思議もありません。
 また賢治が、「あのきれいな眼が/なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた」と書いているのも、上の記事引用中で、「目を僅かに開いたり…」と書かれている部分に相当するのではないかと思われます。

 トシが最期に、賢治の叫んだ言葉に「うなづいた」のかという問題を、死期における一般的現象に還元してしまうのは、あまりにも即物的で興醒めな印象があるかもしれませんが、医学的には上記のようなことだったのではないかと、私は考えています。

 そうしてみると、「青森挽歌」本文中で「にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり…」と書かれている時点では、まだ本当の呼吸停止になっていたわけではないことになります。
 死期が近づいてくると、呼吸はしているかしていないかわからないほど弱々しくなり、呼吸の数も極端に減って、間隔が15秒もあくこともありますから、まだ呼吸が完全に停止していなくても、周囲の家族が「呼吸が止まった」と思ってしまうことは十分にありえます。血圧が低下して、手首などでは脈拍も触れにくくなっていたでしょうから、脈も打たなくなったと思われたのでしょう。
 そして、賢治が呼ばれて駆けつけた後、顎や頬をを動かすような「下顎呼吸」に移行して、「二へんうなづくやうに息をした」ということだったのではないかと、私は推測します。

 ところで、上に引用させていただいた yomiDr.の「「呼吸停止」が別れの時ではない」という記事には、下顎呼吸の説明の後に、次のような一節があります。

反応がなくても…最期まで聞こえている
 人の耳は最期まで聞こえていると言います。ある患者さんは胃潰瘍からの大吐血で窒息し、心停止・呼吸停止を来たしましたがその後完全復活しました。彼は何と意識レベルが一番悪い状態で私と指導医が交わした会話を覚えていました。もちろんその際は何の反応もありませんでしたが、後日「聞こえていた」と私たちに伝えたのです。彼のように死の直前にあった人でも声は聞こえていたわけですから、今死にゆく方々も、たとえ反応がなかったとしても声は聞こえている可能性があると考えられます。
 また死の三徴候を確認した時点でも、人の全ての細胞が死んでいないことを考えれば、たとえ呼吸停止・心停止を来たし、ピクリともその方が動かなくても、声はまだ聞こえている可能性もあると思います。
 ただ、見た目には呼吸が止まっていると、亡くなったと思いがちですし、反応もなく動きもしなければ、一般の方も「もう声は届かない」と思いがちなのはよくわかります。

 前回の記事では、賢治の叫びは果たしてトシに聴こえたのか、それに対してトシはうなずいてくれたのかという問題を、必死になって追求しようとする賢治の姿を、追いかけてみました。そこには、ドイツの生物学者ヘッケルの学説までも持ち出して、トシには確かに自分の声が聴こえていたのだと、何とかして自らを納得させようとする賢治がいました。
 しかし、上の引用記事において大津秀一医師が書いておられるところでは、たとえ本人が呼吸停止・心停止をきたした後でも、周囲の人の声は、まだ聴こえている可能性があるのです。
 もしそうであれば、賢治が「ちからいつぱい」叫んだ言葉が、実際トシの耳に聴こえていたということも、医学的にはありえるわけです。たとえ、「うなづくやうに息をした」のは臨終前の「下顎呼吸」に過ぎず、トシが意識的にうなずいたものではなかったとしても、この時のトシの耳には、賢治の言葉が届いていたかもしれないのです。
 ただ、上で大津医師が挙げられた事例ように、そのような生死の境から幸運にも生還できた方の場合には、「聴こえていた」ということが後で確認できるのに対して、トシの場合は残念ながら、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

 結局、トシの耳に果たして賢治の言葉が聴こえたのかどうか、生きている者として確かめる手段は、何もなかったわけです。思えば、だからこそ賢治は、トシの死後にあれほど執拗なまでに、彼女との「通信」を求め続けたのかもしれません。実際のところはどうだったのか、と・・・。

 しかし、11年後にあの世で賢治と再会できたであろうトシは、今度こそしっかりと、「あの時の兄さんの言葉は、ちゃんと聴こえていたのよ」と、笑顔で伝えることができたのではないかと、そんなこともふと考えてみる次第です。

三つの賢治碑

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 ここ数年来、いくつか新たな賢治の文学碑をめぐってはいたのですが、あの震災以降というもの、「石碑の部屋」のページをきちんと更新することができていませんでした。今回、たまっていた写真を整理して、下記の三つの賢治碑のページを新たにアップしました。

 いずれも新しいものではなくて、2010年から2012年の間に建てられた碑です。

 まだ、手もとには少なくとも6つほど未掲載の詩碑写真があるのですが、これからも頑張ってアップしていきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

宮澤賢治来柏100周年プロジェクト

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 大阪府柏原市の「まちの魅力づくり課」の方から、お知らせをいただきました。
 柏原市というと、賢治が1916年(大正5年)3月に、盛岡高等農林学校の修学旅行で訪れ、農事試験場を見学した場所ですが、このたび柏原市では、賢治の訪問100周年を記念して、「宮澤賢治来柏100周年プロジェクト」という催しを行うのだそうです。
 下が、そのイベントのチラシです。クリックすると拡大表示されます。

宮澤賢治来柏100周年記念プロジェクト(表)

宮澤賢治来柏100周年プロジェクト(裏)

 開催される企画は、以下のとおりです。

平成28年3月25日(金)
100年前に賢治が来た柏原は? 見学ツアー
集合: (1) 午前9時40分: JR奈良駅・正面改札口
または(2) 午前10時30分: JR柏原駅改札口集合も可
   ※集合は(1)か(2)のいずれかを選択
コース: JR柏原駅から徒歩で、旧「農商務省農事試験場畿内
     支場」跡地周辺を散策、12時30分頃JR柏原駅で解散
参加費: 300円 (資料・保険代)
申込先: 柏原おいなーれガイドの会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月12日(土)
「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム
  これまでに「宮沢賢治と柏原」について調査・研究してきた結果
  わかってきたことを発表し、参加者全員でさらに史実を深めま
  す。
時間: 午後1時30分〜3時30分
会場: 柏原市立男女共同センター(フローラルセンター)
パネリスト: 石田成年(市立歴史資料館)
        寺本光照(鉄道写真家)
        宮本和幸(柏原市教育委員会)
資料代: 500円
申込先: 柏原歴史研究会(連絡先はチラシを参照)

平成28年3月1日〜4月下旬
宮沢賢治が見た『100年前の柏原』
  賢治が目にした100年前の柏原の姿を紹介します。
会場: 柏原市立歴史資料館

 「見学ツアー」は、賢治の柏原訪問(1916年3月25日)と、月日まで合わせた企画ですね。
 私も、できれば全ての催しに参加したいところなのですが、残念ながら3月12日の「研究フォーラム」も、25日の「見学ツアー」も、どちらも仕事と重なって行けません。せめても、期間中に「柏原市立歴史資料館」の資料展示だけでも見てこようと思っています。

 関西地方では、数少ない宮澤賢治関係の企画ですので、興味をお持ちの方は、ぜひ参加されてはと思います。


 ちなみに、当ブログで賢治の柏原訪問を取り扱った記事は、主に下記の二つです。

・「農商務省農事試験場畿内支場」 (2008年6月19日)
・「運命の柏原駅」 (2008年10月19日)

 前者は、1916年に賢治が修学旅行で訪れた農事試験場について、後者は1921年に父と柏原駅を「通過」した時のことについて述べています。

「饗宴」詩碑アップ

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 「石碑の部屋」に、「饗宴」詩碑をアップしました。花巻の賢治詩碑近くの「賢治文学碑散歩道」に、すでに2年前にできていた詩碑ですが、やっと掲載できました。


大阪府柏原市の賢治来訪100周年事業

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 去る3月31日に、大阪府柏原市の「柏原市立歴史資料館」で展示されている、「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」という企画を見に行ってきました。
 JR関西本線の「高井田」という駅で降りて北に向かい、古墳のある小さな丘を越えて5分ほど歩くと、この資料館の横に出てきます。

柏原市立歴史資料館

 この日にうかがうことをあらかじめお伝えしていたところ、館の事務室では資料館の方と柏原歴史研究会の代表の方が迎えて下さって、3月12日に開催された「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」の様子や、3月25日に実施された「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の状況について、丁寧に説明をして下さいました。

 そもそも、今回の「賢治来柏100年記念プロジェクト」という企画は、3年ほど前に柏原市民の方が、私のサイトの「農商務省農事試験場畿内支場」とか「運命の柏原駅」という記事をたまたまご覧になって、「あの宮沢賢治が柏原市に来ていたとは!」と市役所の方と話題にされていたことが、事の発端だったということです。
 その後、市教育委員会の文化財保護課や、柏原歴史研究会の方々が関連した調査を行い、今年の初めから具体的なプロジェクトの準備を開始して、今回の企画の実現に至ったとのことです。

 さて、3月12日に行われた「「宮沢賢治と柏原」研究フォーラム」では、賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で柏原市の農事試験場畿内支場を見学した際の詳細について、当時の農事試験場の状況や、賢治が乗ってきた鉄道について、3人のパネリストの方々がそれぞれの研究成果を発表され、市民の方々が熱心に聴講されたということでした。

 鉄道研究の観点からは、当時の賢治が乗ってきたと推測される蒸気機関車の写真も紹介されました。

王子駅に停車する8620形機関車

 上の写真は、当時の関西線にも走っていた、大正時代の代表的客貨両用の機関車「8620形」です(当日の配付資料より)。
 賢治が柏原市を訪れた1916年3月25日からちょうど100年後、「100年前に賢治が来た柏原は?見学ツアー」の参加者は、賢治が乗ったと推測される「五一番列車」の、奈良駅発10時6分→柏原着10時47分という時刻に合わせて、奈良駅を10時1分発→柏原駅着10時32分という「大和路快速」に乗り込み、柏原駅では「ようこそ賢治さん」という横断幕を持った柏原市長らに出迎えられたということです。

 100年前に柏原駅を降りた賢治たちは、駅の目の前にある広大な農事試験場を見学したわけですが、当時この畿内支場では、イネの育種交配の日本における第一人者だった加藤茂苞(しげもと)が、精力的に研究を進めていました。賢治の同級生・森川修一郎の記録によれば、修学旅行生に説明を行ったのは畿内支場の「場長」だったということですが、中でも育種の具体的方法については、「其方法としては在来種より単に良種を撰出するもの、ミユーテイシヨンにより良種を改良するもの及相互の掛け合わせにより良きものを得るものとの三法であつて、其各法の優劣易不易等に就いて…」などと専門的に詳しい講話を聞いたとのことですから、この研究の責任者であった加藤茂苞も、その場にいた可能性は十分に考えられます。
 そして加藤は、この1週間後の4月1日に、秋田県大曲の陸羽支場の場長として栄転し、ここであの「陸羽132号」の誕生にも関わるのです。
 後の賢治が、在野の農業技術者として、岩手県に「陸羽132号」を普及させるために熱心な活動を繰り広げることになる重要な「伏線」が、この日の見学でイネ育種研究の最前線を目の当たりにしたことにあった可能性があるのです。

畿内支場硝子室

 上の写真は、当時の畿内支場で品種交配研究のために使用されていた、「硝子室」です(当日の配付資料より)。
 イネの人工的な交配は、あらかじめ雄しべを取り除いたイネの花の雌しべに、別のイネの雄しべから採取した花粉を振りかけることによって行います。この作業は、真夏の暑い盛りに、花粉が遠くへ飛んでしまわないように風のない閉め切った空間で行わなければなりませんし、イネの花というのは咲いてから1時間から2.5時間ほどで閉じてしまうので、とても集中力を求められるものなのだそうです。そして受粉をさせた後も、そのまま屋外でイネを育てていると、スズメなどが来て勝手に他のイネの花粉を付けてしまうおそれもあるため、上のような「ガラス室」の中で、育成管理を続けなければなりません。
 写真のような、全国でも他の農事試験場にはない大規模なガラス室がこの畿内支場に存在していた理由は、少し前に大阪で行われた博覧会の展示用のガラス室を払い下げてもらったためだということで、この設備があったおかげで当時の畿内支場は、イネの交配育種研究では日本一(ということは事実上の世界一)の実績を挙げられたのです。そして加藤茂苞も、この設備のもとで研究を行うために、わざわざ秋田県大曲の陸羽支場から畿内支場に移ってきたのです。
 もともと東北出身の加藤茂苞と宮沢賢治という二人が、この関西の地でたまたま出会い、それが賢治のその後の活動にも影響を与えていたとすれば、とても興味深いことです。

 「陸羽132号」は、それ自身としても冷害に強く東北の飢饉を救う品種となっただけでなく、その後さらなる品種育成の出発点となり、「農林1号」、「コシヒカリ」、「ササニシキ」、「あきたこまち」、「ひとめぼれ」など、その後の日本における代表的なお米を生み出していきます。そのような品種が生まれる源流の一つが、ここ柏原市の「畿内支場」にあったのです。
 残念ながら、畿内支場はその後1924年(大正13年)に廃止され、地元の柏原市においても、その存在はいったん忘れられかけていたようです。しかし、今回の賢治関連のイベントを契機に、ある時期の日本の農業の発展に多大な貢献をしたこの施設を、地元からも見直していこうという機運が、高まっているということです。
 下の写真は、柏原駅の西口近くに立てられた、農商務省農事試験場畿内支場の跡地の案内板です。昨年の2月に柏原市の教育委員会が設置したもので、宮沢賢治の来訪にも触れてくれています。

「農商務省農事試験場畿内支場跡」案内板

     農商務省農事試験場畿内支場跡
 JR柏原駅の北側には、明治三六年(一九〇三)から大正一三年(一九二四)ごろまで、農商務省の宇治試験場畿内支場がありました。農事試験場とは、当時、農産物の改良のために設置されていた施設です。東京の本場のほか、全国に支場が設置されていました。そのうちの一つが、畿内支場です。畿内支場の総面積は、明治三六年ごろで約二万七五〇〇平方メートル。明治四一年(一九〇八)ごろからは、それに加えて旧奈良街道(今町通り―古町通り)の西側にも約三万五〇〇〇平方メートルもの農地を借地していました。当時、支場には、全国から約三五〇〇品種もの水稲が集められており、日本で初めて人工交配に成功するなど稲の品種改良研究に関しては、全国のトップレベルにあったようです。
 大正五年(一九一六)年には、宮沢賢治が盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の修学旅行で同級生らとともに見学に訪れています。
  平成二七年(二〇一五)二月
                            柏原市教育委員会

 また、現在の柏原駅舎は2007年に全面改築されて橋上駅になっていますが、1889年(明治22年)に建てられ、賢治が乗降した際に使った旧駅舎の正面入口に敷かれていた花崗岩の敷石が、今は柏原駅西口のベンチの脇に「旧駅舎メモリアルモニュメント」として保存されています。
 縦向きに置かれているこれらの石の上を、100年前に賢治たちが歩いたというわけです。

柏原駅西口旧駅舎メモリアルモニュメント

 「柏原市立歴史資料館」の「宮沢賢治が見た「100年前の柏原」」は、この4月下旬まで展示されているということですので、関心のある方はぜひ一度ご覧に行かれることをお勧めします。

 さらに、今年8月27日の賢治の誕生日(生誕120周年!)の頃には、今度は柏原市立図書館において、賢治の作品を取り上げる企画を開催する予定とのことですので、こちらもまた楽しみにしたいと思います。

柏原市立歴史資料館・宮沢賢治が見た「100年前の柏原」

【謝辞】 貴重な時間をさいてご説明を下さった、柏原歴史研究会の桝谷政則様と、柏原市立歴史資料館の石田成年様に、心より感謝申し上げます。

足利市宝福寺の「雨ニモマケズ」詩碑

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 今日は、栃木県足利市の宝福寺というお寺にある、「雨ニモマケズ」詩碑を、拝見してきました。経緯は以下のとおりです。

 私はこの3月末に、一通のメールをいただきました。

・・・私も宮澤賢治様のファンですが、郷里の栃木県足利市に嘗て賢治様の熱烈な崇拝者が居りまして、彼の家の菩提寺に「雨ニモマケズ」の立派な石造りの詩碑を建て、賢治様と彼の祖先の供養をしております。・・・

 そして、その「雨ニモマケズ」詩碑を、当サイトの「石碑の部屋」に加えていただくというのはいかがですか?とのご提案をいただいたのです。
 実は、この詩碑を建立されたのは、メールを下さった橋本和民さんのご令兄の、故・橋本哲夫氏だということでした。

 「賢治の詩碑」と聞くと、いつもながらじっとしておれなくなる性分の私は、地図で場所を確認するとともに時刻表検索をして、4月10日(日)であれば何とか現地往復ができそうだと思いましたので、橋本さんにメールでその旨をお知らせしました。
 すると、ふだんは東京都内にお住まいであるにもかかわらず、当日は足利市にて私を詩碑まで案内して下さるというご親切なお返事を橋本さんからいただき、本日の行程と相成ったわけです。

 京都を朝早く「のぞみ」で発って、東京からJR上野東京ラインで北千住へ、そして北千住から東武線に乗り換えました。
 菜の花が咲くのどかな北関東の平原を、電車は北に向かいます。

東武線車窓から

 そして、「足利市」駅の一つ手前の、「東武和泉」という駅で降りました。

東武和泉駅

 駅前で橋本さんがお出迎え下さって、詩碑のある宝福寺まで、タクシーでお連れいただきました。徒歩でも10分ほどのようです。
 地図で言うと、下記の場所ですね。

 下写真が、宝福寺の正面です。

宝福寺正面

 ちょうど、桜吹雪の舞う頃でした。

 そもそもこの宝福寺は、鎌倉時代から続く武士の家系である橋本家のご先祖が、菩提寺として建立したお寺で、境内の墓地には、橋本家代々の広大な墓所があります。そして、その墓所の一角に、第20代当主であった故・橋本哲夫氏が、1978年(昭和53年)に、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」を刻んだ碑を建てられたのです。
 下写真が、その詩碑です。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

 碑は、縦長の黒御影石に、哲夫氏の義兄にあたられる書道家が書かれた「雨ニモマケズ」のテキストが、端正に刻まれています。
 真摯で、かつ活き活きとした力を感じました。

 橋本家の始祖・橋本求馬(もとめ)は、上州館林城の家老で、鎌倉時代の末には主君赤木氏に従って、新田義貞の鎌倉攻めに参加したという逸話も残されています。その後の子孫は、三河武士になったり、江戸で醸造業を営んだりしていた時期もあったそうですが、はるか時代が下って明治になると、橋本さんの曾祖父、祖父の時代には、農民救済のために足尾鉱毒事件と闘う田中正造翁を、この足利において物心両面で支える役割も果たしていたということです。
 橋本さんのご令兄・哲夫氏は、1925年(大正14年)生まれで、戦争中は海軍に従軍しておられたということですが、早くから宮澤賢治に親しみ尊崇していたとのことです。終戦とともに郷里へ帰ると、この宝福寺の境内にある集会所で宮澤賢治の研究会を開いたり、村の青年たちを集めて劇団を組織し、自ら脚本を書き演出を行って、「石川啄木の生涯」などという劇を行ったりもしたということです。

 ところで、敗戦とともに世の中の価値観が180度変わるという激動にさらされた時、新たな方向を模索しようとする青年たちが、宮澤賢治の思想を拠り所にしようとするという現象は、全国のいくつかの場所で見られたことだったように思います。
 現在は一関市となった長坂村の青年たちが、紙不足の中で苦労して、「雨ニモマケズ」「農民芸術概論綱要」「ポラーノの広場」などのテキストを手に入れて勉強する中で、谷川徹三揮毫の「農民芸術概論綱要」碑を村に建立していくエピソードや、また北海道の穂別村で、戦後最初の公選村長となった横山正明が、賢治の精神を村に根付かせようと、「賢治観音」なる仏像を発願して建立する経緯などが、私には連想されます。
 賢治の「〔雨ニモマケズ〕」は、大政翼賛会文化部によって、「滅私奉公」など戦争遂行のための思想宣伝に利用され、そのおかげで国民に広く知られるようになった面もありました。そして敗戦とともに、戦前のイデオロギーが一挙に否定され、それまでもてはやされていた多くのものが地に落ちましたが、ただ宮澤賢治の思想には、それでも変わらぬ何かが含まれていることを、当時の若者たちは感じとっていったわけです。
 上の二つの例のいずれも、「農民芸術概論綱要」碑あるいは「賢治観音」というモニュメントとなって、戦後まもない時期から現在まで残されているのがもう一つの共通する特徴ですが、ここ栃木県足利市で終戦後に賢治の研究会を行ったという橋本哲夫氏の思いも、この「雨ニモマケズ」詩碑となって、やはり今もしっかりと刻まれています。

 さて、戦前は大地主だった橋本家も、戦後の農地改革で農地の大部分を手放さざるをえなくなりますが、哲夫氏は賢治の「羅須地人協会」を理想として、農業に身を捧げていったそうです。
 現在、栃木県はイチゴの生産量では日本一ですが、この「栃木のいちご」の栽培・改良に力を注ぎ、現在の栃木県産イチゴの先鞭をつけた一人が、橋本哲夫氏だったということです。

 そして、晩年になってからも哲夫氏の賢治への敬慕の念はますますつのり、ついに青年時代からの念願だった賢治の詩碑を、橋本家の墓所に建立したのが、昭和53年秋でした。

 下の写真は、詩碑の両脇にある地蔵菩薩の石像と、石灯籠も一緒に写したところです。この二つも、橋本哲夫氏が詩碑と一緒に建立されました。
 この宝福寺には、子供の健やかな成長を守ってくれるという「子育地蔵尊」があり、古くから近隣の信仰を集めてきたということですが、その縁にちなんで、ここにもお地蔵さんが立っておられます。

宝福寺「雨ニモマケズ」詩碑

【謝辞】 ご親切な案内およびご説明に加え、様々なご厚情を賜りました 橋本和民様に、心より感謝申し上げます。

大槌町で講演「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」

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 来たる5月4日(祝)に、岩手県の大槌町で、「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」と題した講演をさせていただくことになりました。下記が、そのチラシです。

大槌宮沢賢治研究会講演会チラシ

大槌宮沢賢治研究会 講演会(参加費無料・予約不要)
「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」
   ―最愛の妹トシを亡くした後の心の軌跡を作品でたどる―
日時: 平成28年5月4日(水・祝日) 14時―16時

主催: 大槌宮沢賢治研究会 ベルガーディア鯨山
後援: 大槌町 大槌町教育委員会 NPO法人心の架け橋いわて

 場所は、大槌町吉里吉里にこの4月にできたばかりの「Remenber HOPE 浪板海岸ヴィレッジ」というところです。地図では下のマーカーの場所で、「三陸花ホテルはまぎく」のすぐ北隣の浜辺にあります。

 今回のお話は、大槌で「風の電話」を運営しておられる佐々木格さんからお受けしたもので、たまたま私が今度の連休に三陸方面に行くので、また佐々木さんのところにお邪魔してもよいかとお聞きしたところ、「それならついでに講演も」というご依頼を頂戴しました。
 内容としては、昨年11月に「第7回 イーハトーブ・プロジェクトin京都」で、竹崎利信さんの「かたり」とともにお届けしたものを、今度は私一人の「講演」という形式で行います。

 佐々木格さんが、先の震災・津波で大切な人を亡くした方々のために、「風の電話」によって提供しておられる活動も、一つの「グリーフ・ワーク」であると言えますが、一人の人間としての宮沢賢治が、かつてどんな「グリーフ・ワーク」の道を歩んだのかということを、大槌の皆さんと一緒にたどってみたいと思います。
 私自身が、直接的に地元の方々の力になる、ということまではなかなかできないと思いますが、宮沢賢治という「先達」が、経験し、苦しみ、考えたことの中に、少しでも参考としてお役に立つことがあれば・・・と思っています。

大内金助と「花巻納豆」

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 花巻市豊沢町の賢治生家から少し南に行くと、納豆の製造販売をしている「有限会社 大内商店」があります。

(有)大内商店

 この会社の現在の社長さんは、大内俊祐さんとおっしゃいますが、先代の大内金助さんは、実は稗貫農学校における、宮澤賢治の教え子の一人だったのです。
 まず、稗貫農学校の大正12年卒業生名簿をご覧下さい。

稗貫農学校大正12年卒業生

 賢治が農学校の教師に着任したのが1921年(大正10年)12月ですから、翌年の3月にも、4か月だけ教えた卒業生を送り出しているわけですが、じっくりと一年を通じて教えた生徒としては、上に掲げた彼ら30名が最初だったわけです。
 下段には、「福田パン」の創業者として先日ご紹介した福田(及川)留吉がいますから、くしくもこの学年は、「食品会社の社長を2名も輩出した」ということにもなります。

 今日は、大内商店と大内金助氏の略歴について、「平成版 花巻の名人・達人 第17回大内俊祐」や、「同窓生が語る宮澤賢治」などを参考に、以下に簡単にまとめてみます。

 大内氏の先祖は、豊沢町で「肝煎」(町名主)を務めていたということで、この地域の名家だったようですが、「大内商店」の歴史は、金助氏の祖母にあたる大内シマ氏が、1887年(明治20年)にこの地で豆腐の販売を始めたことを端緒とするということです。
 その息子の大内栄助氏は、取り扱い品目を増やして、藁苞納豆や、当時としては珍しいサイダーやラムネも売るようになり、このサイダーは、近所の宮澤賢治も買いに来たということです。後に賢治が「やぶや」で、蕎麦とサイダーを注文するようになる原点は、この大内商店のサイダーにあったのかもしれませんね。
 その後大内商店では、大正の初め頃から納豆の製造も開始しますが、まだ当時は藁苞に付着している納豆菌以外の雑菌のために、製造に失敗することもあったのだということです。

 栄助氏の長男の金助が稗貫農学校に入学するのは、こういう状況においてでした。大内家の家業は、農業ではなくこのように納豆製造販売でしたから、農学校と言っても田畑の耕作ではなく、発酵・醸造の方面を勉強することが、当初からの目的だったと思われます。
 農学校在学中の大内金助については、同級生の及川(福田)留吉が、次のようなエピソードを書き残しています。

 今追憶して面白いことは、(宮沢)先生は、授業は初めてだったらしく、お馴れになれなかったでしょう。最初の頃は、早口で、私ども生徒にはなかなかその講義に追っつけないのです。「ちっともわからん、ちっともわからん」と連発して口うるさい隣席の大内金助君や、前席の小田島治衛君、そのほかの連中もわいわい騒ぐものですから、おそらく隣室の職員室にも聞こえたのでしょう。あるいは廊下を通りすがりの校長先生がこの様子を知ったのかもしれません。二、三日してから校長先生は、宮沢先生の授業を見に来られ、三〇分ばかり見てから教室を出られました。
 その後の先生の授業は、かなり緩やかになり、回を重ねるにつれてだんだん丁寧さを増し、どの授業も非常にわかりやすくなりました。それに該博な知識にしばしば面白いユーモアが加わり、それに我々の稚拙な質問にも嫌味、億劫さのない親切な説明をされるものですから、本当に先生の授業は愉快なものになりました。(佐藤成編『証言 宮澤賢治先生』より)

 上の3-4行目に出てくるように、及川留吉の隣席だった大内金助は、賢治の授業中に「ちっともわからん、ちっともわからん」と連発して口うるさかったというこことですが、この振る舞いには、「町の子」らしい開けっぴろげな感じも漂います。

村松舜祐教授 1923年(大正12年)3月に農学校を卒業した大内金助は、賢治の斡旋によって、盛岡高等農林学校の「助手」に採用されます。そしてここで、当時納豆の研究によって「納豆博士」とまで称されていた、村松舜祐教授(右写真)のもとで、学生実習を補佐するかたわら、納豆菌の純粋培養などの実験にも携わることになるのです。
 まさに、「納豆屋の跡継ぎ」としては当時最高の環境に入ることができたわけで、このあたりには、卒業後の進路について本人の希望をかなえてやるために、賢治が人脈を駆使して骨を折った成果が、表れているのでしょう。

 賢治が盛岡高等農林学校に入学した1915年(大正4年)時点では、村松教授はアメリカ留学中だったので、直接に教授の指導を受けたのは3年生の1年間だけでしたが、賢治との関係は良かったようです。賢治の教え子の小原忠によれば、村松教授はふだんは「厳格でニコリともされない方」だったのに、研究室を訪れた賢治とは、「終始機嫌良く話され、お二人は気が合っておられたようであった」いうことです。
 また賢治は、後に東北砕石工場の技師となってからも、炭酸石灰を搗粉として使用することについて村松教授に助言を求めるなど、その後も交流は長く続きました。

 さらに、大内金助が盛岡高等農林学校に就職したちょうどこの頃、賢治の元同級生で親友でもあった成瀬金太郎が、村松教授の下の助教授として在任していました。
 成瀬金太郎は、盛岡高等農林で村松教授の納豆研究を継承する役割を担い、退職後は「成瀬醗酵化学研究所」を創設しますが、現在も続くこの研究所が製造する納豆菌は「成瀬菌」として、「三大納豆菌」の一つに数えられています(あとの二つは、仙台の「宮城野菌」と山形の「高橋菌」)。
 村松舜祐教授と、成瀬金太郎助教授、そして大内金助助手の3人は、納豆研究室において皆で熱心に実験を行っていたことでしょう。

 村松教授は、すでに1912年(明治45年)に納豆菌の純粋分離培養に成功し、その後1929年(昭和4年)には、その1号菌(納豆粘性物質の生成と蛋白質分解活性が強い)と5号菌(澱粉分解活性が比較的強い)を混合接種することによって、品質の良い納豆を製造できることを発表しています。このようなすぐれた納豆菌が、一方は成瀬醗酵化学研究所に、もう一方は花巻の「大内商店」に継承されて、現代まで生きているというのは、そしてみんながそれぞれ賢治と個別の関わりを持っていたという事実は、賢治を巡る人脈の不思議さを感じさせてくれます。
 大内金助が、盛岡高等農林学校の研究室に在職したのは1年間だけだったということですが、彼が村松教授から現社長の俊祐氏に引き継いだのは、納豆菌だけではなかったかもしれません。村松舜祐という恩師の名前も、一字を変えながらその息子に受け渡したのではないでしょうか。

 さて、大内商店の「花巻納豆」は、地元のスーパーなどでも買うことはできるのでしょうが、どうせなら賢治生家に近くて、生前の賢治もサイダーを買いに来たという、大内商店の店頭で買うのが一番でしょう。
 冒頭写真の右の方にあるサッシの扉を開けて入ると、中は歴史を感じさせる作りになっていました。入って左手には、納豆の製造所があって、何となく神秘的な雰囲気も漂っています。
 奥に向かって声をかけると、女性の社員さんが出てきて下さって、大内商店製造のたくさんの納豆の品名と写真が並ぶパネルを出して、どれにしますか、と聞いてくれました。
 「大粒納豆」や「黒豆納豆」や「ひきわり納豆」など、たくさんの種類がありますが、ここはまず最もオーソドックスな「花巻納豆」を購入しました。1パック100gで、60円でした。

花巻納豆

 これを、翌朝のホテルの朝食の時にいただきました。

花巻納豆2

 パッケージには「中粒」と書いてありますが、蓋を開けると、けっこう大きめの粒がぎっしりと入っています。そして、醤油をたらしてからかき混ぜて食べると、一粒一粒がやわらかくて、とても優しい味でした。最近よくスーパーで買う納豆は、小粒のものが多くなっている感がありますが、これは「豆の味」というものがしっかりと堪能できる感じで、とても美味しかったです。

 これから花巻に行く時には、いつもこれを買ってホテルでいただこうかなどと、ひそかに考えているところです。

高洞山の上を翔ける

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 盛岡市の北東校外、JR山田線の「上米内」駅前にある「高洞山」歌碑を、「石碑の部屋」にアップしました。4年前に撮影してきたものですが、遅くなってしまいました。

「高洞山」歌碑

燃えそめし
アークライトは
黒雲の
高洞山を
むかひ立ちたり
            宮沢賢治

 この短歌は、「歌稿〔B〕」の「大正七年五月より」という章の、「公園。」という見出しの付けられた部分に収められています。
 下記が、「公園。」としてまとめられている短歌群です。

      公園。
        ※
652 青黝み 流るゝ雲の淵に立ちて
    ぶなの木
    薄明の六月に入る。
        ※
653 暮れざるに
    けはしき雲のしたに立ち
    いらだち燃ゆる
    アーク燈あり
        ※
   653a654 ニッケルの雲のましたにいらだちて
           しらしら燃ゆる
           アーク燈あり
        ※
654 黒みねを
    はげしき雲の往くときは
    こゝろ
    はやくもみねを越えつつ。
        ※
655 燃えそめし
    アークライトの下に来て
    黒雲翔ける夏山を見る
        ※
   655a656 燃えそめし
           アークライトは
           黒雲の
           高洞山を
           むかひ立ちたり
        ※
656 黒みねを
    わが飛び行けば銀雲の
    ひかりけはしくながれ寄るかな。

 短歌652に「六月」と出てきますから、これらの短歌が詠まれたのは、大正7年(1918年)6月ということでしょう。
 時に賢治は23歳、盛岡高等農林学校の研究生となり、稗貫郡地質調査で忙しく、実験室ではミスばかりしていると、父あての書簡71に綴っています。賢治の悩みは、職業も含めた自分の行く末が全く見えず、このままでは何を勉強しようとも、結局は父の質屋を継ぐしかないのではないか、という将来の問題でした。またこの6月30日には、岩手病院で診察を受けて「肋膜の疑い」と言われています。

 総じて、賢治にとっては悩み多い時期で、短歌653に出てくる「いらだち燃ゆる/アーク燈」というのは、そんな賢治自身を象徴しているかのようです。
 しかしその一方で、654にあるように「こゝろ/はやくもみねを越えつつ」とか、656のように「黒みねを/わが飛び行けば…」のように、地上で悩む小さな自分の体を離れて、心は軽々と空を飛んで行き、夕暮れの山々の上を翔けていくというのも、いかにもまた賢治らしいところです。
 大正3年には、宇宙空間にまで飛び出して「なつかしき/地球はいづこ…」(歌稿〔B〕159)とも歌った賢治ですから、大気圏内の空を飛ぶくらい、たやすいことだったでしょう。

 さて、これらの短歌が詠まれた場所は、見出しに「公園」とあって「アークライト」が出てくるところから、盛岡市内の「岩手公園」と思われます。そして、賢治が眺めている「黒みね」とか「黒雲翔ける夏山」とは、655a656に「高洞山」が出てくるところから、盛岡市北東郊外にある高洞山を中心とした峰々と思われます。
 岩手公園と高洞山との位置関係は、下の地図のようになっています。(カシミール3Dより)

高洞山地図

 マーカーを立ててあるところが岩手公園で、赤線を引いた高洞山は、北東の方角に見えるわけです。
 ちなみに下の写真は、盛岡駅裏のビル「マリオス」の20階にある「展望室」から見た、高洞山です。

マリオス展望室から見た高洞山

 中央の少し左、NTT東日本の赤と白の電波塔の向こうの、小さな三角に出っ張った山頂が、「高洞山」です。右端の方の、もう少し近くの平たい丘は、「岩山」です。
 賢治は、夕暮れの岩手公園からこのような「黒みね」を眺めつつ、風になったように峰々の上を飛翔する自分自身を、想像していたのです。

◇          ◇

 ところで、賢治が23歳の時に夢想した、「高洞山の上を飛ぶ」というイメージは、後に童話「風野又三郎」にも、生かされています。

   ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
   甘いざくろも吹き飛ばせ
   酸っぱいざくろも吹き飛ばせ
 ほらね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたやうな変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。
 電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どほし馳けてここまで来たんだ。
 ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にゐたんだ。

 風野又三郎の旅は、北極、南極、タスカロラ海床、ボルネオ、グリーンランドなど、地球規模であらゆる場所を駆け巡るものですが、わざわざここに「高洞山」などという岩手県内でも目立たない山が登場するのは、やはり賢治自身が、青年時代にこの山の上を飛ぶイメージを抱いていたからに違いありません。

 この他に、「高洞山」が登場する作品としては、やはり「歌稿〔B〕」の「大正六年五月」に、

496 夕ひ降る
    高洞山のやけ痕を
    誰かひそかに
    哂ふものあり

との短歌があり、また文語詩「岩手公園」の推敲過程で、その「下書稿(一)」などに、

起伏の丘はゆるやかに
青きりんごの色に暮れ
高洞山の焼け痕は
蓴菜にこそ似たりけり

として出てきます。
 おそらく、賢治にとっての「高洞山」とは、岩手公園など盛岡市街側から見たイメージが主だったのではないかと思いますが、記事の冒頭に書いたように、「高洞山」の歌碑が建てられたのは、北東郊外の上米内駅の前でした。
 上の地図をご覧いただいたらわかるように、この高洞山そのものは、上米内駅の「裏山」とも言える場所にあり、米内地区の方々にとっては、この山は地元のシンボル的な存在なのだそうです。たとえば、米内小学校の校歌には、「望みは高く 高洞の」という一節があり、米内中学校の校歌には、「春秋薫る 高洞山の」という一節があり、この二つの事実を見るだけでも、この山が米納地区の人々にどれほど親しまれているかがわかります。

 最後に、上米内側から見た高洞山の写真を載せておきます。上米内の浄水場から撮った写真です。

高洞山(上米内浄水場より)

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